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もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422
付録の四a 《愛》とは何か
われわれの身体の運動という生そして生活は 時間から成っている。他者との関係時間から成っている。他者も 身体の運動という生および生活である。身体の運動そのものを 心理と言い――そしてそれは 身体の維持という意味を基礎として経済生活を含み―― また必ずしも身体の運動は 心理からのみ成るのではないとすれば さらにその基底にみなもとと言うべき精神(生命ないし魂)の領域もあるかも知れないということであった。これは とうぜん 身体の基底でもある。
心をとおして見られるこの心理と精神とから成るその《心》 つまり全体的な《時間》は したがって その根底に或る種の・もしくは或る形での《無限性(無時間)》を伴なった時間過程であろう。
言いかえれば 心は 心理をとおして 精神(形相)によって 無限性なるお方(ないし その背面)をも見ている。(擬人法で表現した場合である)。言いかえれば 社会という時間関係は 或る種の一定の構造であって しかも 可変的な過程である。ただ時間を歩むという単なる過程でもあるし その時間関係は 時間じたいとしての空間から成る社会構造であるとともに それだけではなく その関係構造が 無限性に対して開いたかたちの柔軟な構造でもある。
まづ 愛は――つまり それが 過程的に また 構造的に 人間一個のペルソナの三つの行為能力にもとづいて 三一性から成ることは すでに述べた。すなわち 時間の主体と対象とその時間そのものとの三つのもの一体性としての時間構造における愛は―― このような全体的な身体の運動領域にあることを確認することから 出発する。
そこで この身体の運動領域の中で 或る種の仕方で 段階的にいくつかの分野に分かれて たとえば上から(もしくは下から)順番に 神の愛 それ自身が愛(美)である形相としての精神 心理 そして欲望や情念としての愛 これらから成ると考えられる。《心理》のばあいは 運動する身体どうしの関係そのものと捉えるときには 好きでもなく嫌いでもない中性の愛を思い浮かべればよい。という意味は 実際には そのあとの《情念や欲望としての愛》が その中性の心理に 起きていたり 被せられ押し付けられていたり その中身は うごめいている。この心理を さらにどう捉えるか どう意志してどう表現するか これを考え判断するのは 《精神》である。それぞれ
- 神の愛:charitas ( grace / devotion )
- 精神としての愛(意志):dilectio ( affection ?)
- 心理としての愛:amor ( love )
- 欲望としての愛:cupiditas ( desire / love )
これらすべてが 義なる心・自由なる心において 或る種の秩序を持ち そこから配分がありその選択を為す。一般に 好悪・憎悪や争いや和解を含めた隣人の愛であり 隣人の愛が 神の愛から来て 神の愛と相即的であることをすでに述べた。隣人の愛が 近代市民の科学観(心理学や精神分析)では 心理とか精神とかと捉えられ概念的に或る意味で分析されることも 経験実際的である。
次の 愛の独語が 神の愛に問い求められるなら 対話は 隣人の愛においてであり ここでは この精神( dilectio )と心理( amor / cupiditas )の三一性過程において 愛とは何かを問い求めることが課題である。この対話の領域における愛は それを問い求めるというよりは それが より過程的な実践の中にしかないように 純粋社会学の分野を離れて 表現形態としては言わば文学作品のような場によってむしろ成されるべきではある。ただここで 純粋社会学の場をなお離れないとするかぎりで いや それを無意識とすることはあっても実は人はおそらく離れることはないと考えられるが そこで わたしたちが問い求めるのは このことである。つまり 殊に心理の三一性の場で そこに背後の純粋社会学の立ち場がいかにかかわっているのか この過程的なわれわれの歩みを 或る種 類型的に 問い求めようとすることである。これが ふたたび愛とはなにか の内容である。
《精神は間違った欲望によって あたかも自己自身を忘れたかのように 多くのことをなす》(三位一体論10・5)と言われる。《あやまつならば われ有り。 Si fallor, sum. / If I err, I am. 》と言ったのは アウグスティヌスその人であった(《神の国》11・26)。愛を三一性の構造(時間)において見ることは ほかならず 過程的に捉える・もしくは この過程をとおして 自己自身を愛することである。
しかし 一般に 倫理・道徳(ないし思想)は 心理学や精神論(ないし市民社会学)の範疇に属し 純粋社会学は 自己の神学である。《日から日へ》である。
《こころ》全体の過程を問い求めることが ここでの課題である。また この第四編は 一般に形相によって愛を論じるというよりも(つまり その場合は 前三編である) 自己の生の過程を問い求め促すという目的のもとにある。このように言うことができる。
さて 《精神は神なる卓越した本性において 内的に美しい或るものを見る。精神はそれを享受するため神のもとに留まらなければならないのに 自己にそれを帰そうとして 神によって神に似るのではなく 自分で神なるものになろうとして 神から背離し 放逐され 自分ではより善いものと思いなしているが 実はより低いものに滑り落ちて行く》(三位一体論10・5)ちなみに 《 cadaver (死者・屍)とは cado (落ちる)から来るのである》(神の国20・21)。
それは 独り充ちておられるお方から自らを疎隔するなら 自分自身に満足しないし また他の或るものにも満足しないことである。それゆえ 窮乏と困苦によって はなはだしく自己の行為とその行為があつめる不安な悦楽に没頭するようになる。かくて 外側にあるもの――精神はこの類いの知識を愛し またもし注意深く保持しないなら失われ得ると感じるようなもの――から知識を獲得しようとする欲求によって安寧を失い そして自己を失い得ないと確信すればするほど いよいよ自己自身を思惟(おも)わなくなる。かくして 自己を知らないということと自己を思惟わないということとは別なことである。
(三位一体論10・5)
引用を続けたいと思う。
例えば 私たちは多くの学問に通暁している人について かれが今 医学について思惟していて 文法学について思惟していないからとて 文法学を知らないとは言わない。つまり 自己を知らないことと自己を思惟しないこととは別なことである。したがって 愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたものを 自己を思惟するため或る仕方で還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。精神はそれとの長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れている。だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ物体そのものを一緒に引き入れることは出来ないから 物体の似像(にすがた)を思い廻らし 自分でつくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。その似像をつくり上げるとき 自分自身の実体の或るものをそれに与える。しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判断する能力を保持している。これは適切な意味で精神( mens )であり 判断するため保持されている理性的な知解力( intelligentia )である。物体の類似によってかたちづくられるあの魂の部分を私たちは動物と共有していることを知っている。
(三位一体論10・5)
しかしわたしたちは 隣人の愛( amor / cupiditas )が 精神( dilectio )とともに 一個のペルソナにおいて一体であり そうであるならば そこに愛の各段階・各カテゴリがあることを認めても 全体として 三位一体の背面を見るごとく 三一性の構造を形づくっていると言おう。この構造が過程的な構造であることは言うにおよばず 《あやまつならば 我あり》と言って ――《 cogito. ergo sum. 》ではないだろうごとく あるいは 《あやまつならば》のその《あやまち》に気づいたときの思いと考えが 《コギト》なのであり――こう言うことによって いわば開き直るがごとくして まちがった欲望にかんする《思念についても神の赦しを祈り求め 胸を撃ち 〈われらの罪を赦したまえ〉と言〔い〕 つづいて 〈われらがわれらの負債者をゆるしたるごとく〉(マタイ6:12)と祈りにおいて付加されなければならない》(三位イタチ論12・12)という時間過程であると言おう。だから
しかし精神は これらの似像に非常に強い愛によって結合し 自分をこのような類いのものと評価するなら誤る。かくて 精神はその存在によってではなく その臆見によってそれらの似像と思いなすことではなく 自己の中に持っているその似像そのものであると全く思いなすことである。精神が外側に残した物体を 自分の中に持つその物体の似像から区別する判断力はたしかに精神の中に生きているのである。勿論 この似像が眠っている人とか狂人とか 或る脱魂の場合よく起こるように 内的に思惟されず いわば外側において感得されるように表現されるときは別である。
(《三位一体論》10・6)
この最後の但し書きのばあいは 重要である。それは 或る一個のペルソナの身体の運動の過程において ある日ある時 まちがった欲望によって 自己を離れるというのではなく そのように言うよりも かれはもともと その時代と地平つまり かれを取り巻く情況そのものが 狂ったように眠り或る脱魂の症状を呈するとき かれのではなく《まちがった愛》がすでにあって 《いわば外側においてそれが感得され》 かれは或る思念をかたちづくる以前にすでに かれの愛の三一性構造を《表現し また それじたいもその外側においてはすでに 表現されている》場合を 言っている。これはすぐれて 共同観念(ムライスム)にもとづく幻想共同のしんきろう的呪縛のことを言っている。かれはこのとき すでに神を問い求める前に 闘わなければならない。自己の時間が すぐれてそのまま 闘いの場と化している。時間が眠っているのであるから。
かれは 闘うかれは 覚めて眠らなければならない。しかるのちに またそれと並行して 神を問い求めよ。ここに自己の安息の地を問い求めない者は 屍である。したがって この例外の場合を含めて やはりわれわれは 《あやまつならば われ有り》の愛の過程を 純粋社会学とともに たどることができる。
《あなたがたは神の畑であり 神の建物である》(コリント前書3:9)から 《自分のからだは 神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であっ あなたがたは もはや自分自身のものではないのである》(同上6:19)と見出したごとく 《すべて市場で売られている物は いちいち良心に問うことをしないで 食べるがよい》(同上10・25)その過程を すでにこれを《受け取ったいるなら 受け取っていないもののように誇る》(cf.同上4:7)べきではないから あゆんで行くべきである。この純粋社会学の いまは 過程である。
したがって 精神が自己をこのようなもの(前掲10・6)と思いなすなら 自己を物体であると思いなしているのである。精神は身体を支配する自己の優位を十分に意識しているゆえに 或る人々が身体において何がより価値があるのかと問い それは精神であるとか あるいはたしかに魂全体であると考えるようになったのである。
そこで 或る人々はそれが血であり 或る人々は脳であり 或る人々は心臓であると思った。・・・しかしかれらは私たちが切断されている内臓に見る身体の全く小さな部分を心と考えたのである。或る人々はいわゆる原子といった極微 不可分割の小物体の集合 凝集から心が成り立っていると考えた。或る人々は空気 或る人々は火がそれの実体であると語った。或る人々はそれはいかなる実体も持たないと考えた。かれらは物体以外にいかなる実体も考えることは出来なかったし また魂を物体であると見出さなかったからである。むしろかれらは それは私たちの身体の構造あるいは要素の結合である――それらから肉がいわば組み立てられる――と考えた。したがってこのような人々はみな魂は可死的であると思ったのである。
かれらによると 魂が物体であれ 物体の或る合成であれ たしかに不可死的に持続することは不可能であるから。ところが 魂の実体は或る種の生命であって決して物体的ではないと考えた人々は 生命はすべての生ける物体に魂を吹きこみ 生命づけると見出したゆえに 必然的に魂は不可死的であると 出来る限り証明しようと努めたのである。生命は生命を欠き得ないからである。その人々は魂の第五の物体 quinta essentia ――私はそれがどのような種類のものか知らないが――から成り立っていると言った。かれらはこの世界の周知の四要素にこの第五の要素を付加するのである。しかし私はここでかれらの考えをこれ以上長く論議すべきだとは思わない。あるいは かれらも私たちが物体とよぶもの つまり その部分が場所の拡がりという点で全体よりも小さいものを物体とよんでいるのである。だからかれらも精神を物体であると思った人々のうちに数えられるべきである。
- 反純粋思想派の唯物論は 質料という物体のその奥に 物質を想定している。つまり《物質》とは 形相的である。
あるいは かれらが すべての実体が場所の間隔において長さ 幅 高さで限界づけられるのではないことを知っていて すべtの実体を あるいはすべての可変的な実体を物体とよぶなら 私たしはかれらと言葉の問題について争うべきではない。
(三位一体論10・7)
つづけて この問いに対する結論は 次のようである。
(つづく→2008-06-01 - caguirofie080601)