caguirofie

哲学いろいろ

#39

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の三d それでは《愛》はどこから来るか

その形相の体系(イデオロギ)じたいは むしろ完璧である。マルクスは 反純粋思想論において むろんこのキャピタリスム形相体系を批判したのだが 批判したにもかかわらず――ヘーゲル批判の系譜として その国家体制主義への反論は措くとしても(それは 重大ではあるが)―― この形相の完璧さを認めるがごとく(それは マルクスが 自己自身を 独語としての自己の固有の時間には置かず むしろ《資本》という社会関係そのものの中に置き そしてそれは 対話への踏み台とするというよりも 対話の現実動態的な連関そのものに自己が成りきるかのごとく 神を愛した結果だという) そうして この形相体系の体系観念であること 言いかえれば その共同観念ないし共同幻想である部分を 指摘して批判し 後世を俟った。後世を俟ったということは その時代の三一性構造の旧いものから新しいものへの動きを見ず それに参加しなかったということではなく 対話としての三一性構造が キャピタリスム三一性の発展・成熟段階において とりもなおさず 自己の三一性構造に重なり これに独語を問い求めること自体が 時代の要請であったからだと言ったほうがよい。
キャピタリスムが 成熟の時代を終えその最高の発展の段階に到達したとするならば 話はちがうということは 自明のことがらであろう。《資本》論ないし《剰余価値の学説〔史〕》は キャピタリスム形相体系に代わる新しい共同主観(つまり これも形相体系でもあるが)を用意したというよりも キャピタリスム共同主観の有限性・可変性をたしかに明らかにしたと見るほうがよい。ここにはしかし たしかにあのわれわれも問い求める自己自身の領域があり その心は――だから それを 共産主義・共産社会(その像の想定)と言うよりは―― 自由という共同主観である。そうでしかないことが しかし 偉大なことなのである。自己自身の分水嶺をたどって 日から日へ あたかも栄光(なんなら 悲惨)から栄光へ 変えられ前進することは 人間にとって 偉大なことである。これは 《自由人》が大前提として われわれに与えられているからだと言っても われわれの側の悲惨ではない。
だから キャピタリスムは この神の領域にたとい小部分でも触れ得たのである。そして甘えたのである。それは 《日から日へ》ではなく 《日の老いたる者(神)》に 自己自身をゆだねるかのごとくして しかし かれの心理の三一性〔を 自己自身とするかのごとく それ〕をゆだねたのである。国家論・ナシオナリスムが この心理の愛の自由三位一体を 大いなる雲で包んだのである。(だから キャピタリスム=ナシオナリスム)。雲が 風によって動かされ 雨を降らすことによって 霊を保証し霊〔の似像たる魂〕を動かし燃え立たしめるものであると言うのは 形相的な純粋思想ではない。
だから アウグスティヌスは 半ば問い求める場所になお留まるかのようにして われわれがたどるあの分水嶺を 《神直視 visio 》と捉え つづけて論じる。

 しかし非物体的であるだけではなく 最高に不可分離的であり 真に変化しないこの神の三位一体を 《顔と顔を合わせて》と私たちに約束されている神直視が訪れたとき――自己が自己自身となったとき―― 私たちの現在の状態を示すこの似像よりもずっと明らかに確実に見まつるであろう。しかも《この鏡をとおして》《この謎において》 この生において見ることが許されている限り 見ている人々は私たちが詳論し提示したあの三つの能力を その精神において認める人々ではなく その精神を いわば似像として見る人々であり(*――この一節は 繰り返されてよい――) そのようにしてかれらが見るものを精神がその似像であるお方に或る仕方で関係させ得るのである。そしてかれらが認めることによって見る似像をとおして 予感することによってではあるが 神を見得るのである。まだ 《顔と顔を合わせて》神を見ることは出来ないからである。実に使徒は 《今 私たちは鏡を見ている》と語るのではなく

 今 私たちは鏡をとおして見ている。
パウロ:コリント人への第一の手紙 10:12)

と語るのである。
(三位一体論15・23)

《鏡》とは 心理・愛の つまり社会の三一性の構造である。《この鏡をとおして 〈心〉において今 私たちが見ている》そのお方が われわれの愛の源泉だとわれわれは言うのであった。しかもこのことは――わたしは言うが―― 近代のキャピタリスム市民社会の発達するに及んで もはや 古代・中世の信仰の原動力が 教団としての組織ないしその蔽いとしては取り去られたがごとく 社会としての愛の三一性構造が 信仰の形態ないし構造たる《鏡》となったがごとく 安定したものとしてビルト・インされ われわれは現代において 神の愛の似像たる隣人愛が 仮象的に――仮象的に―― 現在していることと把捉されるのである。
つづく文章では アウグスティヌスは この近代以前の時代において したがってこの条件の生成とは或る意味で別の観点から しかし この条件におけるその仮象的な・神の愛の似像たる隣人愛のかたちを超えうる原理を 提示している。(隣人愛とは つまり 殊に経済的ということがある意味で仮象的にして 共同の自治の側面をになっており そのように間接的であってもよいと考えうる)。
《愛はどこから来るのか》の問い求めの最後として この点にわれわれは触れておくべきである。アウグスティヌスは言う。

 だから 見られ得るだけ自分の精神を見 また その精神において私に出来るかぎり 多くの仕方で論じたあの三一性を見るが しかも その三一性が神の似像であると信ぜず また知解しない人々は なるほど鏡を見ている。しかし今 鏡をとおして見られるべきであるお方を鏡をとおして見ていないのである。かれらが見ているその鏡は鏡 言い換えると似像であることを知らないのである。もしそのことを知っていたなら おそらくかれらは 精神がその鏡であるお方

  • 精神は 神の領域と その神の領域を共有するが その類似的共有は はるかに隔たっている。または全面的な共有ではない。このことは 最終的に 市民社会が 神の見えざる手に導かれてとしたその領域・その出発点の原理を そのまま示している。国家ないしA‐S連関制〔の近代市民的な確立形態〕において アマテラス社会科学主体の見える手は 最終政策者の責めを 神(なんなら社会自然)に代わって 請け負ったのではなかったことは明白である。なんならむしろ 最終責任者と言わずとも 自治者・政策者であることは 自己自身にある。しかしこの自己自身は 日から日へ みちびかれるがごとく変えられるのである。《おそらくかれらは 精神がその鏡であるお方》

を 今は鏡をとおして見ているが 顔と顔を合わせて見得るように 鏡をとおして問い求め 鏡をとおして 暫くの間 いくらかでも見なければならないと 偽りのない信仰と清らかな心によって(テモテへの第一の手紙1:5)悟るであろう。もし心を清める信仰を軽侮するなら 自分たちの知解力の証言によっても罰せられることになる以外 人間の精神の本性について極めて鋭く論じられることを知解することによって何を為し得るであろうか。
(三位一体論 15・24)

この点は 論じるのにむつかしいことがらである。しかし もし鏡をとおして見るのではなく――鏡をとおして見るときわれわれには あの《自由人》の大前提が すでに与えられていたようにして これを受け取る―― 鏡そのものを見ていることによるその三一性構造の共同観念化つまり 幻想共同が 肥大して強固であればあるほど はっきりさせるべき課題なのである。愛がどこから来るのかの問題と相即的なのであり もし純粋社会学が 純粋社会学としてのみに終わらないもの〔であるべき〕とするなら――勿論われわれはそう考えるのだが そうすると―― このいまの問題のほうが ちょうど独語と対話との関係に似て 知解の糸口にはより近いとも考えられる。
われわれは 純粋社会学からの展開として いづれこの点を直接――いや 直截的にだが 間接的に・もしくは関係直接的に―― 語らなければならないであろう。と思われる。それはあたかも イエス・キリストが 

 地上に平和をもたらすために わたしが来たと思うな。平和ではなく つるぎを投げ込むためにきたのである。
(マタイによる福音10:34)

と述べるようにして わたしが思うには キャピタリスム神学(愛の行為形式)がその形相体系としての最高の発展段階に人類として到達したからには このいまの《人間》が 類として・もしくは他の生物とのあいだでは 種として 変えられることを含んでいると考えられることにつながる。いま考えられることとしてだけでも キャピタリスム経済行為の心理・愛の三一性構造 これが鏡であるからには それをとおして神ないし自己自身が見られるべき鏡であるからには この鏡が現実であって自己自身〔の固有の時間〕が非現実であると倒錯して考えられているその三一性構造は 転換させられるであろうその《こころ》をとおして 《心》が主であって 鏡は従であるという現実が――実際にも 《物神両面の福祉の時代へと移行する》と語られるがごとく―― 現実となるであろうことは 未来のことではなく(時間の未所有のことではなく) ここに現在しているのである。これは いま考えられているこれまでの種としての人間が 新しい種へと変わることと知解される。
以上 愛はどこから来るのかについて このように考えた。これからどうなるのか われわれには分からないが 顔と顔を合わせてあのお方を見まつる社会が来るであろうとは 純粋社会学の結論である。それは 日から日へ 変えられ 歩みつつある人びとに たしかに生起するであろうと むしろわれわれは明確に言って対話することにしよう。
(つづく→2008-05-31 - caguirofie080531)