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哲学いろいろ

#37

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

付録の三b それでは《愛》はどこから来るか

愛は 三一性から成っていた。愛する人と愛されるものとその愛とである。この愛がどこから来るのか。しかも 自由なる・自由への愛こそが われわれの問い求めるものであった。また しかるがゆえに この愛の源泉を問い求めて わたしに固有の時間を探査しようと旅立ったのであった。そこでわれわれは 見出した者のごとく 三位一体を次のように問い求めよう。
一個の人間の身体の運動は 心によって捉えられ 心がそのとき基づいた形相は――身体の運動の翻訳としての形相は―― 純粋形相にまで発展するがごとくである。つまり言いかえれば 観念や幻想になりうる。それは 心理の運動における時間的なことであるという性格とその一つひとつの事例のあいだの懸隔によって 心理に付随し付着する腫脹のようなものである。また 精神――共同主観――の周縁的な・後にあるものでもある。われわれは 時間的(=有限的で移ろい行く)存在たるがゆえに持つこの共同観念と共同幻想を兼ね備えるがごとく おのおの一個の主観であり主体です。
この《共同観念( muraïsme / nationalisme )‐共同主観( sensus communis )》連関としての(または 非連関としての)一個の主体を ペルソナ(人格・位格)と呼ぶ。

  • ペルソナ( persona / prosopon )とは 仮面のことであるらしい。身体の運動の忠実な反映の――もしくはその逆。つまり 園忠実な反映が身体の運動であるその――共同主観が 共同観念的な存在であることをもって 仮面ないし覆いをかぶると言うものであろうか。共同観念は しばしば情念を帯び 一般に情感的である。

この一ペルソナとしての人間は そのかれが 身体を伸ばし運動する。つまり 愛する。つまり生活するのである。この愛が 三一性より成っているものであった。おそらくこのとき 愛の三一性は 人間の知解という行為によって《愛する人》となり 記憶という行為によって《愛されるもの》と保ち またその愛という行為(これは 意志である)によってこれら《愛する自己》と《愛される相手》とをつなぐ。知解行為とは 身体の運動の読み取りである。記憶行為は 心における読み取りの集積であり そこには 学習した結果としての判断の基準ないし規範もそなわっている。狭義に愛の行為と言えば 身体の運動に働く意志であり その自由な選択をいう。
愛が 身体の運動の三一性であるに対して これら《知解‐記憶‐愛(意志)》の三行為とは 一個のペルソナである人間の有(もの)であり 人間の三つの行為能力である。《知解》が 生産(労働・協働 / 学問・科学)の行為であり 経済行為および経済学行為の領域を 広く社会的に形成する。《記憶》が 組織行為・組織化行為である。組織行為には つきあいの関係と秩序 / 集団や社会の組織行為が入り 法(法哲学)の領域を形成している。具体的な法律行為は むしろ《知解》の領域であろう。また《愛》が 自治(文学・芸術ないし経営・政治=共同自治)行為であり 政治〔学〕行為にあたかも代表される領域を形成するものである。
要約すれば 愛・心理の――愛の主体とその対象と愛そのものとの――三一性は 一個のペルソナたる人間の――知解と記憶と愛との――三つの行為能力と相即的である。精神――そう言ってよければ 精神の三一性――は この心理の三一性とともに おおきく《心》の現実をかたちづくっている。そこでさらに また この精神は――有限なペルソナが持つ精神あるいは魂は―― 無限なる《いのち》と想定される神と 共有する領域を持つ。

  • また 譲歩して言えば つまりこの推察が 欺かれ虚偽とならないように譲歩して言うなら あたかも《私が通りすぎるまでは 私の手であなたを蔽うであろう。私の手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう》(創世記33:22)との言葉をモーセが聞いたようにして われわれは 神の背面を見て これをわれわれの精神の領域において共有するであろう。

したがって われわれが神のその背面を見るがごとく われわれは神をこの《ペルソナ》の概念で捉えようと心見る。しかし 神は 愛であり霊であると言われた。まづは精神が目に見えないがごとく 目に見えない。そのかぎり われわれは 神を 形相において捉えざるを得ない。もっともこれは われわれの生命が実在のごとく 目に見えない実在であるとしての限りである。言うまでもなくつまり この形相と真理にもとづいて むしろ心理の領域において 独語から対話の領域へと進むかのごとく 隣人および自己つまり 肉なる人を愛するという広く《心》の世界においての議論であるにほかならない。このかぎり 神のすがたを捉えることを為す。
言いかえれば ペルソナの概念によって 神はいかなるペルソナのかたちにおいてあるか これである。もちろん三位一体(つまり この場合は ペルソナが三つである。つまり三つのペルソナの一体性)というのが すでにある仮説である。また 身体の運動 つまり 《後にあるものを忘れ 前にあるものへと心を集注して身体を伸ばす》現実領域の考察に資すると信じるがためである。《人間の眼で見る兄弟を もし霊的な愛によって愛するなら 愛そのものであられる神を内的な眼――それによって神は見られ得るのである――で見るであろう》(三位一体論8・8)と言うときのこの愛 この愛はどこから来るのか これをいま問い求めようとしている。
さて 神は愛であり霊である。

  • 霊は 風という語からみちびかれた言葉であって そうであるにふさわしいと言える。漢語の《霊》も 神の力を 自然のかたち(《雨》)によって もしくは人間の側から言えば 身体の領域(《口》――これは 下にある並のような字形のなかに もとは 入っている)によって 捉えようとしている。ちなみに このようにこれら形相は 一たん身体の領域に還して かえり見られるべきであろう。身体の運動とこころとのつながりの問題でもある。あるいは 農耕社会にとっては 雨は 神の愛またその保証金であると あとづけしうるかも知れない。

神は愛であり霊である。それでは 神のだれが愛する人であり だれが愛される人であり そのようにして愛であるのか。まづおそらく 風または雨の最終責任者である霊ないし愛を 聖霊なる神と呼ぶことにしよう。ふさわしいと考える。

  • 人間の現実心理の領域 ないし この地球もしくは宇宙を知解しようとするとき このように 人間がその最終責任者ではない領域をも措定することは 人間の科学(知解)にとって いわれのないことではないであろう。

したがって 聖霊なる神を 神の一つのペルソナと称することは不適当ではないだろう。それでは 神の だれが愛しだれが愛することの結果(または そのこと自体の中に) この聖霊なる愛が発出すると考えるのか。あるいは このような 人間の愛の三一性から類型的に形相として省察して この神に 三つのペルソナを想定すること また その一体性を説き及ぶことは 不必要なことであるか。不可思議のことなのか。
おそらく 必要としてよいであろう。すべきであろう。そのような独語と省察によって 愛の三一性がより人間のものとして つまり われわれの自由なる行為となって 対話ないしその共同自治(つまり愛)へと導かれるというものである。なぜなら この神の領域は われわれの広く《心》の世界をとおして 精神の領域と共通する部分があると初めに想定していたからである。この仮説的命題に立つ限り 神のすがたを知ることは 自己自身を知ることにほかならない。と言える。言いかえれば このような回りくどい論の立て方をしなくとも 一般に心理の領域だけではなく精神の領域を考察すること つまり愛――それを 憎悪と言い替えて 一向にさしつかえない――がどこから来るのかを考察すること これは われわれ人間はつねに行なってきたことである。
つまりここでは 神の概念を用いるという違いはあって それに過ぎないと考えることができる。さらに言いかえれば ここでは そのような一般に哲学(つまり そこには とうぜん 自然科学をともに含むわけだが)ないし社会科学という知解作業によって成された省察は この神の概念を排斥するか もしくはそれを  受け容れるけれども不可知のものとするかという むしろ仮説的な前提に立つものであり われわれは 人間が最終責任者でない領域を捉え しかしながらこれも人間の世界の一部である(ないしその逆 つまり人間は自然世界の一部である)とすることによって こうする限りで 神のかたちは知りうると考える。(われわれが 知られうると考える)。
この知解行為は 人間に必要というのであって もし何もそこになかったとするなら 単なる形相世界の幻想でしかなかったとするなら その結果はそれで ひとつの有効な知解作業であるだろう。従来の科学行為の結果 その成果(それは 人間の手によって成ったからには 有限で可変的である)をもって 《断定する人を 直ちに批難することは 正当であ》って この前提は いつの時代にも崩れないことは明白である。
それは 神の世界へと上昇(もしくは下降)していけば 自己自身の姿としても いかなる愛のかたちが ないしその源泉が 見出されうるか。これを問い求める。
たしかに 身体の運動から成る心理の領域の三一性は 可変的にして有限のものであって しかるがゆえに それじたいで一見 自由なものであるように見える。ただ――ただ一つ明らかなことは この世界じたいによって明らかになことは―― 《後にあるものを忘れ 前にあるものへと心を集注して身体を伸ば》すというとき その自由は 有限・可変の浮遊情況のような自由ではない。あっちへ行ったりこっちへ来たりするような浮遊する自由ではない。後にある心理の三一性をあたかも崩すがごとく 前にある新しい三一性へと進む。または 導かれるのであって この自由は 言うまでもなく 動態である。動態であって たといわれわれ自身が最終責任者でなくとも われわれの意志・愛・自由において これを為す。そこには いくつかの らせん状にすすむ過程がある。
愛の三一性は 後にあるその栄光から――つまり人は三一性にとどまるとき それをとおして ひかりを見る。ゆえに栄光。しかし何なら 悲惨から――その新しい栄光へと らせん階段を進み導かれる。しかもこれは しかしながら ひるがえって 人間がみづからその最終責任者ではないからのごとく 世代を超えて歴史の長い眼でみれば その他方の側面では やはりおおきく有限・可変の浮遊情況の中にとどまっているということは 真理である。《世の中が変わるわけがない》という。けれども 自己の一世界 自己の生の完成と完結の眼からみれば 愛の三一性は 旧い三一性を脱ぎ捨てるかのごとく 前進する。このことも 真理である。自由とは このことである。
このとき ほかの誰のでもない自己の自由とは それを保証する愛(自己の自治・経営)が どこから来るのか。これを問い求めることは 人間の有(もの)である。
ちょうど玉突きのように 自己の愛の三一性と 他者の愛の三一性が 互いにぶつかりあって 新しい三一性(時間)へと進むとするのは そのままでは幻想であって またそのままでは 旧い三一性の――衣替えでさえなく―― 浮遊する配置転換でしかない。玉突きの玉があれば その玉を突く者もいるはづだ。玉が人間としての自己であれば 玉を突く者も――いま 神なる主体はこれを措くとすれば――自己という人間である。この自己を知ることは必要である。それは 神なる領域へ上昇(もしくは下降)してこれを問い求めるとき もっともよく自己が知られるはづである。
(つづく→2008-05-29 - caguirofie080529)