caguirofie

哲学いろいろ

#157

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第二章 聖霊なる神が固有な意味で 愛である

〔31〕
だから 聖霊や父ご自身も一般的な意味では知恵であるのに 神の唯一なる御言が固有の意味で知恵と呼ばれるように 父と子も一般的な意味では愛であるのに 精霊が固有の意味で愛という語で呼ばれる。
しかし 神の御言 言いかえると神の独り子は 《キリストは神の力 神の知恵》(コリント前書 1:24)と言う使徒の口をとおして明らかに神の知恵といわれる。しかし もし使徒ヨハネの言葉を注意深く調べるなら 聖霊が愛であるといわれる文章を見出す。かれは 《いとも愛する者よ 互いに愛し合おう。愛は神から来るゆえ》と言った後で 《愛する者はみな神から生まれたのである。神を愛さない者は神を知らない。神は愛であるから》(ヨハネ第一書 4:7−8)と付加している。ここでかえは 神は来た というその同じ愛を神と名づけていることは明らかである。だから 愛は神からの神である。
アウグスティヌス:三位一体論 15・17)

わたしたちはここで 人間の時間的・経験的な愛(愛情――なんなら憎しみも――・忍耐・希望)において 言わばこの愛の思念(いわゆる こころ)を見たならば――ただし すでにくどいようにわれわれが論じてきたようにあの悪魔 これもあたかも同じように この《こころ》を造作なく用いることは明白だ―― この愛は それじたい 神からの神 すなわち聖霊なる愛であると見よう。

しかし 子は父なる神から生まれ 聖霊は父なる神から発出したのであるが そのいづれが ここで神は愛である といわれていると受け取るべきか 問い求められるのは正当である。父のみが神から来ることなく神である。したがって 神から来たようにして神である愛は子か聖霊いづれかである。つづいて使徒ヨハネは神の愛に言及し 私たちが神を愛する愛ではなく 《神が私たちを愛され 子を私たちの罪のための宥(なだめ)の犠牲として遣わされた》愛について語る。そこで 私たちは互いに愛し合おう そうすれば神は私たちの中に留まりたまうと勧められるのである。かれはたしかに 神は愛である と語った。そして直ちに一層 明白にこのことを証明しようとして 

神がその御霊を私たちに与えたまうたことによって 私たちは神に留まり 神は私たちに留まりたまうことを知るのである。
ヨハネ第一書 4:13)

と言う。したがって 私たちが神に留まり 神が私たちにオ留まるようになしてくださるのは 神が私たちに与えてくださった聖霊である。このことを為すのは愛である。それゆえ 聖霊は愛なる神である。終わりに 少し後でヨハネは 《神は愛である》と繰り返し語って 直ちに 《神はその御霊を私たちに与えたまうたことによって 私たちは神に留まり 神は私たちに留まりたまうことを 私たちは知る》と語ったのであ。だから 《神は愛である》と読まれる箇所で聖霊が意味表示されているのである。したがって 神から発出する聖霊なる神は 人間に与えられるとき かれを神と隣人に対する愛へと燃え立たせたまう。聖霊が愛なのである。人間はもし神から受け取るのでなければ 神を愛し得る愛を持たない。したがって ヨハネはその少し後で神が先づ私たちを愛したまうたゆえに神を愛しまつろう》(4:19)と語る。使徒パウロも  

神の愛は私たちに与えられた聖霊によって 私たちの心に注がれたのである。
(ローマ書 5:5)

と言う。

これがいま《愛》ないし《聖霊〔というペルソナ(実体)〕》について見るとき その《隠れたところから明るみへ引き出すべき真理》なのであり もしわたしたちがこの真理なるお方を 顔と顔を合わせて見ることが出来ないとするならば――われわれはこれを わづかに予感によって為さしめられうる―― 内なる眼で見られうる人間の経験的な愛 ここに 愛なる神である聖霊を見まつろう。経験的な愛によって経験的なものごとを用いるとともに その愛という思念を 人間の思念(知解)をとおして 見まつろう。この愛を愛するとき 実にわれわれは すでに神を見たのである。
《私たちに与えられ 私たち人間の心に注がれた》のでないなら つまり聖霊なる神は人間が――天使でもなく他の生物でもなく 人間が―― 受け取るためでないなら 神の愛は存在しえない(――神の愛は 人間がそれを拒絶するときにも むろん存在しているが これを受け取るときでないならば たとえ《山をも移すような信仰があろうとも》 かれは その信仰によって あの祖国に帰り得ない。すなわち 情念の船が浮かぶというアマアガリの時間は いまだ空中に――それがたとえあのシンキロウでないとしても――浮かんだままである)。人間が この史観を生きなければならない。それは もとより行ないによってではなく 神から与えられる恩恵の助けによってではあるが この史観はこれも人間の自由意志によって選び取らなければならない。すなわち あの十字架のキリストをわれわれが飲みまつることによってである。

〔第十八章 32〕
神の賜物の中でこの愛に優るものはない。この賜物のみが永遠の国の子らと永遠の滅びの子らを区別する。聖霊をとおして他の賜物も与えられているのであるが 愛なくば益なし(コリント前書 13:2)である。だから 聖霊が各自に神と隣人を愛する者たらしめるように与えられていないなら 各自は左側から右側へ移され(マタイ地 25:33)ない。この愛のためでなければ 聖霊は固有の意味で賜物とはいわれない。愛を持たない人は たとい人びとの言葉や御使いたちの言葉を語っても 喧しい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たとい預言する力を持ち あらゆえう秘義( sacramenta )とあらゆる知識を知っていても たとい山を移すほどの信仰を持っていても 無である。また たとい自分の全財産を施しても たとい自分の身を焼くために渡したとしても 益なしである(コリント前書 13:1−3)。
だから それなくしては いかに大きな善(行ない)も 誰をも永遠の生へ導かないような善とはどんなに偉大であろうか。しかし愛( dilectio / caritas の二語も 一つの事柄を表示している)はそれを持つ人を 言葉を語らずとも 預言を持たずとも あらゆる奥義 あらゆる知識を知らずとも 施すべき何も持たないためか 或る困窮に妨げられてか 自分のすべてを貧しき人に施さずとも またそのような苦難の試練に会わないゆえ自分の身を焼くため渡さずとも 御国へ導く。そのように愛のみが信仰を有益なものになすのである。愛なくしても信仰は存在し得るであろうが それは有益ではない。そのために使徒パウロは言う。

キリスト・イエスに在っては割礼があっても無くても有益ではない。愛によって働く信仰が有益である。
(ガラテア書 5:6)

このように かれは悪鬼たちをも信じて慄(おのの)かしめるあの信仰(ヤコブ書 2:19)から この正しい信仰を区別する。

ただし まづ信仰(キリスト・イエスを飲みまつるあの心の回転)があって はじめて 愛が生まれるのである。血筋によって 肉の意志によって あるいは人間の意志によって 生まれるのではなく たとえばそのように生まれた経験的な愛を その思念を心の眼で捉えることによって その外なる人の愛を脱ぎ捨ててのように 内なる人の愛に生まれ生きることによってである。この愛は 移ろい行くことなく――たとい人が 心をそこから再び 逸らしたとしても 人はそれによって 《神が〔われわれを〕試みられた 顧みられた》ことを見出してのように 日々 新たにされて行く。だから そのように時の経過によって移ろい行くことなく――すでに かれは約束された《永遠のいのち》を受け取ったのである。キリストが 道であり いのちであり 真理である。そして 人間キリスト・イエスとしてすべての者にとって模範であり目標であるなら その目標に至る道が見出されうることを意味し また真理はわれわれを自由にすると言われるとき 《聖霊を受けよ》と語られてのように この愛なる《永遠のいのち》を注がれるのである。
聖霊が 永遠のいのちである。なぜなら 子の父と父の子との言詮を絶した交わりから それは発出され 人間に派遣されるものだからである。われわれは このように告白しつつ 知るとき 律法なるムライスムによる共同自治(それも愛〔・経営・政治〕である)を超えて いつまでも移ろい行かない内なる人の自治(八重垣なるやしろ)を 与えられ受け取ってのように 築くようになるだろう。肉と霊魂 つまり身体および精神的な共同和 これとしてのムライスムが なくなるのではない。またこれから離れて 愛〔なるアマアガリ〕はありえない。身体(観念)共同和の世界の中で 情念の船が浮かんでのように この地上の世界を 自治(なんなら支配)する時間および時代を 人は見よ。
ここに単なる観念性・非現実性をしか見ない人は 身体と精神的な行ないのこの地上における空しさを詩って この空しさの顔蔽いを取り除き得ないようにして キリスト史観の生きて働くことを見ようとしていないのである。たといかれらの或る人びとが 精神的な行ないや知識によって人間の栄誉を担っていたとしても かれらはなお人間に従って 祖国に帰ろうとしている。いや第一のアダムの子孫としていまだ その第一の死を死んだままなのである。キリスト者は その史観を生きることによって かれらの・死によってもたらされた損傷を癒し そこから回復するのを祈ってのように この愛に燃え立たしめられる。祈るのは 人間の経験的な意志であり 与えられた力にもよるのであるが 愛に燃え立たしめその愛の成就をもたらしめたまうのは 神である。聖霊なる愛なる神が そこに宿ると語られたゆえ。それ以外の道をとおってではありえないと語られたことになる。こう言ったあと 神などの語を揚棄している(用いなくなる)ことは一向に差し支えないのである。必要なとき 神もしくはヤシロ資本推進力あるいは愛と呼んで コミュニケーションを成立させてゆく。
(つづく→2007-10-21 - caguirofie071021)