caguirofie

哲学いろいろ

#112

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三部 キリスト史観

第三章 日本人にとってのキリスト史観

第五節 神の似像とは何か

夜(あるいは 夕べ)の国が 空中のしんきろう閣 すなわちこの地上の国です。しかもその中に 朝の国 神の国が現在します。ただ あの天秤の垂直的なかたちを思い浮かべるようにして この二つの国が あたかも《アマテラス〔主導支配〕‐スサノヲ》連関というふうに 転倒しているだけです。この倒錯が 天秤の一回転を内的に経過するように 新しいかたちとして 元に戻るのです。元に戻るようにして しかも新しいかたちとなるのです。内的に回心せしめられるなら 全体的にして外的にもいづれ回転するでしょう。しかしこの回転は アマテラス圏におけるアマテラス語方言(実体語と空体語と)の回転ではなく やしろ全体の転換であり これは 空中のしんきろう像などではなく そのまま経験的・歴史的なことがらであります。(単なる言葉の上での《〈神国〉と〈民主主義〉》との天秤の均衡または回転ではない)。心に真理を語るなら その新たな愛は 客観化・しんきろう化を為し得ないのですから。(だから 原理的に心の内なるやしろの強いて言えば天秤の回心は 瞬時にして成り なおかつ 生ける存在として 過程的であり 時を俟ったのです)。またつねに そのような動きです。
これは あの独占愛から自由です。これが 独占資本・共同観念的な天秤体制の再編成・変換をもたらすのです。あまり細かく見通しを立てる必要のないいうほどに 現実歴史(まづ 自己の一生涯)的であります。このような視像は 予言・預言というよりは 共同主観の現在的にして健康な生きた滞留であると言います。こう語って いま存在可能なことが その現実性・現在性を証明します。ここに 生きた史観があり 人間の言葉が聞かれると言います。なぜなら たとえばベン・ダサンの説が アマテラス語だと言えるとしても この言葉は(つまり わたしたちの言葉は) 客観化・アマテラス語のなまりを持つ方言化できないからです。それを キリスト史観と言います。シントイスムが これから無縁であるとは 言えません。なぜなら 共同観念・アマテラス語を 欺き それによって欺かれることがあるとしても 人は 自己・自己の史観を欺くことはできません。(スサノヲのミコトは 胸先にまでひげが伸びるまで もはや 妣(はは)の国に帰りたいとこそ 泣きいさちるのです。その間 仕事をほっぽりだしていたかどうかは 別問題です)。この脅迫・この誘惑が 真実であると悟るゆえに。


神学的な考察から入ります。

実に 《神は御子を女から創られて 遣わしたまうた》。しかも 万物は御子によって造られたゆえに たんに御子が創られて派遣される前のみならず 万物が存在する前にも 派遣された このより小さいものといわれるお方は派遣したまうあのお方に等しいと私たちは告白する。
それでは 御子が派遣される その時の充満が訪れる前 すなわち御子が派遣される以前 まだ派遣されないで御父に等しくあると見られたのに 或る天使の外貌が父祖たちに示されたとき どのようにかれらに見られたのであろうか。御子はどうしてピリポに

かくも長い間 あなたがたと共にいるのに 私を知らないのか。ピリポよ 私を見る者は父を見るのである。
ヨハネによる福音14:9)

と言われたのであろうか。ピリポは他の人びと またキリストを十字架につけた人びとと同様にキリストを肉において見たのである。だから キリストがそのように言われたのは ピリポがキリストを見ていたが その真の御姿を見なかったからでないなら なぜだろうか。御子は創られて派遣されたものとして 見られたが 万物の創造の根拠なるお方として見られたのではない。また 主が人間の眼の前に現われているのに

私の戒めを持ち これを守る者は私を愛する者である。私を愛する者はわが父に愛されるであろう。私もそ人を愛し その人に私自身をあらわすであろう。
ヨハネ14:21)

と言われるのも 御言が時の充満において肉に造られたその肉を私たちの信仰が受け取るために提示され また万物の創造の根拠なる御言自身を信仰によって清められた精神が永遠において観想するように保留されたからでなければ いかなる意味であろうか。
(三位一体論 4・19〔26〕)

実にこれ 神の御子(御言・神の言葉・キリスト――神は霊 不在と捉えられる者である――)の派遣とは何かの問い求めであり これをふたたび考えてみたいと思います。
存在(不在として存在)するとおりには思惟され得ず 思惟するとおりには語られ得ないもの これ――すなわちそこに神の国が存在する――について観想するわれわれにとって まづ 神でないものを神とする誤謬 これらを指摘することを ここでの思惟ないし理論としてきたわけですが この第三部では 直接的な開示にも及んだということでした。また ここで繰り返し述べるなら 一つに あの墜落する以前の第一のアダムの楽園にも比されるコミュニスム社会という原形・外形的な――それは 理性による人間の言葉だが その近い行為〔単独〕をとおして 精神において保持されるのみである。なぜなら 主観の全体 殊に愛(自治・経営・政治)は この精神における原像とはうらはらに 外的・社会的にのみ求められるからである。だからこの原形的(原始コミュニスム制)・外形的な――《神の似像》の像は 神の国でないばかりか 神の似像あるいは人間の言葉でもない。(実際問題として あの原主観を捉えようとすることによって 神の似像は ほかならぬ自己であり このような主観の内なるやしろだということを このような唯物史観は説くことができない)。これが 神でないものを神とする一つの誤謬である。
もう一つに 理性によって思惟する人間というその人間の自己の中心性によって あるいは 一つの地域(身体・観念)共同和の中のそのような共同観念的な人間(日本人・ユダヤ人等々)を 中心として・ないし支点として 自己および社会を捉えることにより おそらくは実際にかれらがそれぞれ ほんとうは神の似像として存在するからのごとく その存在の奥にその根拠なるお方を神として立てる(ユダヤ人) 或いは この根拠なるお方は密教圏にしりぞけて 人間の或る範型を見ることによってこれを 神にも似た人間すなわち《神々のひとり》なのだとして この中にのみ《神》を捉えようとする 無意識の前提のうちにそうする・つまり信じている(日本人)かという類型的な誤謬。なぜなら これらは それぞれ 人間が神を造っている。すなわち 身体的肢体の仕組みによって限られることのない神のその似像 つまり 人間が 理性的に・人間の言葉によるのではあれ 上の第一の唯物史観のばあいとは異なり あの不在なものの像が地上に限定されている。われわれの言葉でキリストが十字架からふたたび地上に引きずり降ろされている。からである。これらも 神でないものを神として 言いかえると 神の似像である人間を そうでない人間存在の仕組みとして 思念している誤謬に属している。
それでは キリストの派遣とは何か。
人間の歴史がそれじたい この神の言葉の証言であるということ。この《私の戒めを持ち これを守る者は私を愛する者である。私を愛する者はわが父に愛されるであろう。私もその人を愛し その人に私自身をあらわすであろう》と 人間キリスト・イエスは言われたのであった。しかし そう《言われるのも 御言(キリスト)が 時の充満において肉に造られその肉(イエス)を私たちの信仰が受け取るために提示され また万物の創造の根拠なる御言自身(かれが 人間の歴史を 不類似の類似をとおして 造られた)を信仰によって清められた精神が永遠において観想するように保留されたから》なのである。
先行形態の例(唯物史観とシントイスム)をとって類型的に言うと まづ唯物史観によってコミュニスム社会の像が 《精神をとおして永遠において観想するように保留された。しかもこれは 内なる人の秘蹟にこそ与えられた》であり もう一つに 《人間を中心的な支点として その或る範型(複数でありうる)においてこれを〈神々〉と仰ぐごとく 神の似像を内なる人にとどめるようにして しかしこれは全くの地上の類型にすぎないものであるから これとはおよそ別様に 〈御言が時の充満において肉に造られたその肉しなわちイエス・キリストを 外なる人の模範として 私たちの信仰が受け取るために提示され〉たから》である。
この《肉において内なる人の秘蹟(――十字架を通過する転生というバプテスマ秘蹟――)と外なる人の模範(――肉において しかも肉の情念に死ぬであろう・神の言葉への従順――)》とは あの初めの人キリスト・イエスにおいて ひとりの――ひとりのである――小さいものである。ところが この《派遣されたより小さいものといわれるお方は 派遣したまうあのお方に等しいと私たちは告白する》。そうでないなら・またそうであるがゆえに 一方の唯物史観も 他方のシントイスムもそれぞれ あい矛盾しつつもきょうそんするというかたちの大きく真理の中の・奇妙なしかし地上において先行する或る種の誤謬形態ということになる。
われわれは これによって ここにおいて理性的に あの神の似像を〔自己の内に〕とどめるべき。天使の存在(コミュニスムの社会像)を 天使に仕えるかのごとく 欲する・つまり 天の高みに走り行く ことなく また 天使の能力(神々)を人間を支点として 欲する・つまり 地の低きに移り行くことなく 神の似像としてあのやしろの至聖所に臨み 《あの肉を受け取り 根拠なるお方を永遠において観想するように保留され》ていたと知るのである。ここから 人間に近づき だからわれわれは 欲しなければならない。走らなければならないし そうすることができる。《欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたまう神による》のは それを獲得すそこに到達するがためである。
しかし主の〔真理の〕霊があるところに 自由があると言われた。ゆえに 神にお出来にならないことはないと言われるほどに 神の国は 不在なものの現在であり ところが われわれ人間・神の似像を 身体的肢体の(身体・観念共同和による・個人的および社会的な)仕組みに限定してしまう人の知恵は愚かで空しいということになる。しかし イエス・キリスト

かくも長い間 あなたがたと共にいるのに 私を知らないのか。ピリポよ 私を見る者は父を見るのである。

と語られた。だから この観想は すでにわれわれのもとに存在していたである。暗き淵に葬られてのごとくであれ われわれのもとに キリスト史観として 現在する。《さあ立て ここから出かけよう》と語られる。わたしたちは 狂った者のごとく 死んだ者のごとく こころにこう記したいのである。いや それはすでに あのモーセのように石板に〔律法が〕記されるようにではなく あるいは 《神々・現人神》というように 〔共同〕観念として頭の中に――しかし それは 条件反射的な頭であるかも知れない(ベン・ダサンまた森有正に言わせれば 《〈二人称〉の世界》的な頭である)――記されているというのでもなく こころに 内なるいのちとして 記されていると言う。またそれは いわゆる筋金入りのマルクシストと言うように ただ外的な実践の中に でもないであろう。
内なる人としては このキリスト者の時代 キリスト史観の時代であり 外なる人としては この第三のアダムとして(かれに信教は自由だ) 種が変わってのごとくなお肉を保って インタスサノヲイストとして インタムライスム=インタキャピタリスムの社会形態の中に キャピタリスムおよびデモクラシの両原則をみちびき この地球での生を生きる。ユダヤイスムの律法 シントイスムの共同観念 マルクシスムの実践 これらはこの中に止揚されるであろう。(もっとも この予言は 嘘である。正しくないこと 虚偽を語ったとは思わないが それは ただ かたくなな頭に対してなお沈黙しないがために述べたものである)。日本語の慣用にならって われわれは よろしくお願いしますと言わなければならない。
(つづく→2007-09-05 - caguirofie070905)