caguirofie

哲学いろいろ

#153

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第七節 《妻をこもらせるために》から《妻と共に》へ

《第五章 最終的に死が滅ぼされる》から《第六章 八雲立つ出雲八重垣》そして この《第七章 妻籠みに八重垣作る その八重垣を》までは 一つにつながった議論であります。また おそらくは この順序を逆にたどっても成り立つ議論であるかとも思います。もし個人が 対の関係ないし広く一般に性〔の区別〕の関係の中にも 実際には 出発しているものだとすれば。またさらに 少しく宣伝をなすとするなら その中の各一節ごとに 一つのまとまった論議をも展開してきたと思います。
さらにまた このように キリスト史観をいくらか必要以上に紙幅を取って 述べなければならなかったとするなら それは わたしの観想が未熟であり しかもこの観想を必らずしもその視観するとおりに 表現しうるには筆がついてゆけなかった。そうしてこれらは 或る種の議論と呼ぶほうがよいかと考えてきています。
さらになお このキリスト史観がこのように一つの議論であるとするなら――史観は議論(対話)であってよいと思われる反面で―― この史観の原理への観想は もしこう表現することがゆるされるとするなら 人間にとっては 或る種のかたちで或る一定の時間において それを通過すべき過程(またそこに アマアガリがのぞみ見られる)とこそ思われるのです。この一定の時間を通過したのちは 史観と関係ないなどと言うことではなく またたしかに この観想は その思惟が持続的でなくとも 生自体が持続的であるほどに およそ愛と表現すべき生(行為)のかたちとして 持続的であるとこそ言わなければならない。のですが それにしても わたしたちは いつも《主よ 主よ》とか呼び求めているわけではなく 《つねに聖顔を求め》つつも いつも神に呼ばれているわけではない。のかも知れない。また そうであるかも知れません。また そうでない場合も それは 神を 或るときはすでに忘却しており 或るときは想起するということではなく たとえばそれは すでに見た《恐れ》といった〔時間的な〕情念のかたちとなって現われている。しかもこれが もろもろの情念(あるいはその源である自己の意思)が木の船に乗ってのように浮かび 快活な恐れとなっているなら それはわたしたちのあえぎ求めている時間であるということになるわけでした。
ここで 《妻籠みに》の内容が 《妻をこもらせるために》》から《妻と共に》へあたかも移行するということを言うのは その対の関係 あるいは《〈妻籠みに〉という一対の関係としての個人》どうしの〔二角ないし三角錯綜の〕関係において 以上のようなアマアガリの時間を問い求めているそのこととなって現われているということ これを 実際にはその固有の時間において 史観している。このように言うため このように問い求め見出すためにほかなりません。これが 与えられないなら ここにキリスト史観を問い求める意義はなく すべての議論はむなしいものとなるでしょう。
このように 或る意味で お互いの主観をここに引っ張って来た責任は むしろわたしたちにはないと言い得るかのごとく わたしたちは生きている。そのような姿を想定してよいと思うのです。もちろん それがいま 対の関係〔としての八重垣〕にも言えるというように言って。

肉を離れることなくということが或る意味で《妻をこもらせるために》とつながっており たしかにわたしたちは 《肉を離れてではない》史観に立つというとき しかも このことさえ もはやどうでもよいことのようになって 肉(情念)の船が――結婚の前でも 《妻と共に》と表現しうるほどに それぞれの性において そして結婚にあっては《妻と共に》―― あの至高の善へ引き行かれること このことを欲し つまりこう表現しうる地点を一つ〔一つ〕の目標として なおかつ すでにこの地点に立たしめられてのように われわれは 〔外なる〕やしろにおいて 〔内なる〕やしろとして 生きている。こういうことではないかと思うのです。もちろん 後半の視点すなわち 《すでにこの地点に立ち得た者としてのように》ということが 大事だと思います。
これが――そこに神の観想が見られないとしても――神の観想にかんする一つの議論であるのではないか。しかし ゆくゆくは《神》という言葉はこれを用いなくとも 人間の言葉全般として 或る種の対話が可能になると考えられる こう思われるのです。


そこでなお 至高の善へ つまり神への従順なる順立の関係へと 引き行かれると言うならば その過程は 悪つまり 神への不従順なる逆立の関係 との関係が 観想もしくは論議されていなければならない。そしてこれは あのアダムとエワとのように やはり《妻籠みに》の場において よりよく――より一層ふさわしいように よりよく――問い求められ見出されていることでなければならないとして。これまでの議論を総括するように

たしかに悪は 創造者の正しい予知がその悪さえも善く用いうることを証明するために存在を許されている。しかしちょうど 真にして至高の神と 天の見える被造物および見えない被造物とはこの薄暗い大気の上にあるように 善は悪なしにも存在することができ これほど明瞭に悪は善によって打ち勝たれるのである。これに反して悪は善なしには存在することができない。なぜなら 悪がその中に置かれている自然本性は それが自然本性である限り善いものだからである。この悪が滅ぼされるのは それが加わった自然実体はその一部分が取り去られることによってではなく むしろそれによって損なわれ あるいは歪められたものが癒され 回復されることによってである。
神の国について 14・11)

ここに むしろ わたしたちは 経験的なものごととして 可視的ないし可感的なかたちでも このアマアガリの過程が 実現しうることを信じなければならない。むろん これを信じるがゆえに神を信じるのではなく それは逆の道筋であるのですが。

  • ただ イエスは 《わたしを信じなくとも わたしが行なったわざを信じなさい》とも言った。

《それゆえ 意志の選択(愛)は 悪徳と罪に仕えないときに真に自由である。(欠陥を憎み人を愛さねばならない)。意志は神によってそのようなものとして与えられている。それが自らの欠陥によって失われた場合 それを与えた神によってでなければ回復はされ得ない》(神の国について 承前 14・11)。このような構造 あの快活な恐れの構造的な過程が どこまでもつづくのであると 観念しなければならない。《悪を取り去ろうとすることによってではなく またその欠陥を憎むことを回避することによってではなく 欠陥を憎むことによって悪が それまでに損なわれ あるいは歪められた部分の癒され回復されることによって わたしたちのアマアガリの時間を自己のものとする》。
これは 《妻と共に》であり また《妻(夫)と共に》なる各個人の独立主観においてであり これによって《妻ごみに八重垣作るその八重垣を》を理解すべきである。
こうして すでにしかし 《妻をこもらせるために》なる対の関係からは 経験的な次元でも 解放されているならば アマアガリの時間は この対関係までは 或る意味で 外に出てゆき また ここから外へは――その自己なるやしろの外へは――基本的には出て行くこともできないだろうと考えることができる。(もちろん そうだからこそ 共同主観なのであり そこから 実践――外での――行なわれると言っているのではあります)。もしいまも まだ やしろがむしろこの外にあると思いなされているとするなら それは 国家あるいは国民経済という共同観念のしわざではないか そしてそれが あの八重垣を あたかもその九番目の垣のように しかしもはやまぎれもなく蜃気楼として幽霊のように取り巻き この第九の垣根としての幽霊から 〔情念あるいは生活も成り立たないと思いこむ結果となっている。このあたかも第二の死は その向きが変えられ 欲情のない生殖 いや妻と共に作る八重垣は 時として 実現するのであるとは 人間の歴史的な 恩恵なる賜物でありかつ自発的な行為過程であると言わざるを得ないでしょう。
このことは 肉に従って・あるいは人間にしたがってではなく 神に従って〔肉を伴い〕生きると言われるとき 実現するのである。

しかし《肉に従って》――肉の本性じたいは悪でないとしても そのことは悪である――の意味を採るためには 使徒パウロの《ガラテア人への手紙》に見られるあの箇所を注意深く考えるのがよい。そこではこう言われている。

肉の働きは明白である。すなわち 不品行 汚れ 好色 偶像崇拝 まじない 敵意 争い そねみ 怒り 論争 異端 ねたみ 泥酔 宴楽 およびそのたぐいである。わたしは先に言ったように 今もあなたたちに言う。これらのことを行なう者は神の国を継ぐことはない。
パウロ:ガラテア人への手紙 5:19−21)

使徒の手紙のこの箇所をよく考えるならば 肉に従って生きるとは何かという問題を 当面 十分と思われる限り解明することができる。使徒が明瞭であると言い それを列挙して断罪している肉の働きの中には 不品行 汚れ 好色 泥酔 宴楽といった肉体の欲望に属するものが見出されるだけでなく 肉体の欲望とは異なる 精神の悪徳を示すものを見出される。すなわち 偶像崇拝 まじない 敵意 争い そねみ 怒り 論争 異端 ねたみが 肉体よりも精神の悪徳であることを知らない人はいない。実際 偶像崇拝や異端の謬説によってさえ 肉体の欲望が抑えられることがありうるのである。しかしその人もまた たとえ肉欲を抑え 節制しているように見えるとしても この使徒の権威によれば肉に従って生きる者であることは確実であり 肉欲を断った時でさえ いとうべき肉のわざを行なっている者と宣告されるのである。
神の国について 14・2)

いったい 神の似像は 《S者(身体)‐A者(精神)》の連関から成るものであった。それ以外のかたちではありえない。そして S者(身体)がその基体であったとするなら これら欲情ないし一般に情念からこの時間的存在が――あの楽園からの追放以後―― 離れて生きることは 不可能である。A者(霊魂)主導性の力を発揮して――それはあの《妻をこもらせるために》―― 欲情や情念を免れようとも それもやはり この肉に従って・あるいは〔霊魂(精神の力)をも含めた〕人間に従って 生きているのであり アマアガリの時間はかなわないのであって もしくは 八重垣の外に出かけたかたち・すなわち《A圏‐S圏》連関なるやしろ(また ちなみに 《九重‐八重垣》連関)の中で いわゆるアマアガリを行なっている。(だから この外なるやしろにおいては アマクダリもありうる)。ということにならざるを得ない。したがって 欲情を持ちつつも(それを肯定するとか否定するとかではなく) 木の船に召されそれに乗るとするなら 一般に情念の船が浮かぶというように スガの宮という八重垣なるアマアガリの時間が到来するのである。
これは 史観である。ゆえに 経験的なものごとを 超えつつも 排除していない。
インタスサノヲイスト(なんなら キリスト者)は このことを待ち望んでいたのであるが なお忍耐しつつも 時代としてこれが到来したと宣言されたと言えるのではないか。あるいは むろんすでにあったものが このように あるいは明示的に開示される時が来たと言いうるのではないか。それとも このように言うことは 人間がやはり自分自身に向かうことによって 人間に従って 言葉を語るということになるであろうか。
そこで 前節に引用した基本的な命題 すなわち 《神の国について 第十四巻第二十一章》からの一節が 聞かれるべきであると思う。
(つづく→2007-10-16 - caguirofie071016)