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第三部 キリスト史観
第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》
第八節a 《八雲立つ出雲八重垣 妻籠みに八重垣作る その八重垣を》
《第十四巻》の最終章は 次のように始められます。
それゆえ 二つの愛が二つの国を造ったのである。すなわち 神を軽蔑するに至る自己愛が地的な国を造り 他方 自分を軽蔑するに至る神への愛が天的な国を造ったのである。
(神の国について14・28)
人間の《自己愛〔中心主義〕が造った地上の国》は むしろ雲の上なる空中の楼閣とも言うべきA圏タカマノハラであり これは 《高くされたときに投げ出され》てのように 地上の九重なるやしろを築きます。神にしたがって造る《天の国》は むしろ八雲の立ち昇る中にこの地にあって生きる八重垣であり それは S圏と言うほどに 実は《アマ(天)テラスのくに》でもある。
だからこれは 一般に《妻籠みに》でなければ形成され得ないであろう。身体を持って地上にあって生きるのであるから。したがってそれは 九重(内裏)に妻を籠もらせるためにではなく その八重垣を妻(または夫)とともに造るのでなければ 形成されないでしょう。夫は妻に 妻は夫に 仕えるというとき――それは 倫理的に言っているのではない。独立主観における観想として だからそれと行為との理性的な結婚を尋究するものとして 互いに仕えるというとき―― 〔神の〕愛は基本的なかたちで 見られうると言うべきであり そこに真のアマアガリは完成されうると理解すべきです。
しかも この二つの愛が 二つの国を造った。《妻をこもらせるために》〔を八重垣からさらに九重に移した愛〕と《妻とともに》と。これがまづ 現実であったわけです。少なくとも 〔史観の〕認識の前提となる現実であるわけです。
- ここから やしろの再編成つまり 政治経済学的な理論・施策が考えられて一向に差し支えない。つまりそこには 《人間と人間との関係(やしろ)は 男の女に対する関係に還元されうる》というほどの もの一つの前提的な認識が横たわっていると考えられるから。
そこで あの快活は恐れという言葉が聞かれるべきでしょう。
しかし――と もはや最後に この第三部の全体をしめくくる意味で 次のような問いかけをもって 終えることにしたい―― しかし きみは あの第一のスサノヲのうた その全体のよみがえるのを ここでみなかっただろうか。見ただろうか。イヅモすなわち雲の出づるやしろの内に 八雲の立ちのぼるのを見ただろうか。そのやしろには 垣根を八重にめぐらして あたかもその中で愛の火の燃やされてのように そこから雲のまにまに 自由なるお方を見たであろうか。妻(夫)とともに見たであろうか。八重にめぐらすのは 自由の垣根ではなかったか。この八重垣は だれが作るのか。その八重垣をどのように作ると きみは言うのか。
しかしもはや 至高の善にして自由なるお方を言うことはやめにしよう。むしろきみは 八雲立つイヅモに そのやしろに キリスト(しかし神に性はない)において妻 キリスト(しかし神に性はない)において夫 である人を見なかったであろうか。きみは見たであろうか。誰が見たであろうか。
この八重垣を 《金や銀や真珠で》作るもの かれらも試練に遭うであろう。かれらも第一の死を死んだのである。しかし かれらは キリストにおいて妻(夫)を見るなら この八重垣が 情念の火に焼かれる朽ちることなく 復活してあの歌をうたうアマアガリの時間に到達するのを見るであろう。
この八重垣を そうではなく 《木や草やわらで》作るもの かれらは 第一の死を死ぬであろう。しかしその出口をつねに用意された火の試練に出遭うであろう。ところが かれらは キリスト――神に性はない――において妻を見るなら その火をくぐり抜けて来た者として 八重垣の復活を見 あの歌の生きてうたわれるのを聞くであろう。そこに アマアガリは成る。
誰か この歌を聞かなかったか。誰がまた 聞いたか。誰が 聞いたであろう。そうして 誰が 浮かび上がる情念の船に乗ったのか。
わたしたちは この歌をうたうスサノヲなのか。
きみは このよみがえる歌に 愛を見るだろうか。きみは二つの愛を見て 二つのやしろを見るだろうか。二つの愛が 八雲の立つとき 出雲八重垣なるやしろに あいたずさえて向かってゆくのを。スサノヲの歌の愛が これを支え 受け止めているのを。
わたしたちは 聖霊の宿るのを見 花嫁とともに 《主よ 来てください》と言うであろうか。わたしたちは 雲に乗って来られる方を見るだろうか。いや わたしたちは 天の雲に囲まれて来られるこのお方を見るであろうか。
第三のスサノヲの時代が始まるであろうか。このキリスト史観という古事記を経て 新しい万葉の時代がとさえ。わたしたちは この新しい第三のスサノヲである人びとの初穂となったのであろうか。神は このことを計画しておられるのであろうか。いや 計画しておられたのであろうか。《主よ 来てください》という言葉は すでに聞かれたのであろうか。むしろすでに聞かれたから これを宣べ伝えるのであろうか。
人びとは これを 偽りのにせキリストであると言うであろうか。
(つづく→2007-10-17 - caguirofie071017)