caguirofie

哲学いろいろ

#152

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第六節 高慢が八重垣を逸脱させる

しかしわたしたちが このように言うのも ここでは また現代の時点では 国家という社会形態が 八重垣なるやしろの建設を阻止して 死に至らしめるとする限りで この敵対者の克服という点についてのみである。その前には そしてつねに 独立主観における・そしてそれとしての妻と共なる八重垣が 始まったいるものであり また 始まっているものでなければならない。
だから わたしたちは このように史観を綜合することは 《自分の充足を喜んで 真の充足である方から頽落した者には 偉大さを求めることによってかえって卑小となる》(神の国について 14:13)と言われることに陥るものであるかも知れない。だから

実際こう書かれている。

破滅に先立って心が高くなり 栄光に先立って心が低くなる。
箴言 13:12)

たしかに 破滅がまだそれとし見えないでも ひそかな破滅があらわな破滅に先立つのである。というのも 至高の方を捨てるならばそこにすでに頽落がはじまっているのに 人は自分を高くすることを破滅とは思わない。
神の国について 14・13)

と聞かれるべきであるかも知れない。
同じくしたがって 同じ箇所の次の言葉が聞かれるべきである。

それゆえ もし人間が先に自分自身を喜ばせ始めていたのでないならば 悪魔の罠に陥って神の禁じたことをなし 明瞭な罪を犯すに至ることはなかったであろう。しかしそうしたからこそ かれは 《あなたたちは神々のようになるだろう》(創世記 3:5)との蛇の言葉を喜んだのである。もしかれらが高慢のゆえに自分を自分の起源とすることなく 従順をもって最高の真なる起源に固着したならば 一層よく神々のようなものとなりえたであろう。その神々は 自分の真理にもとづいてではなく 神の真理の分有によって造られたのである。
神の国について 14・13)

アマテラスオホミカミも 神々の一人であり スサノヲやオホクニヌシも 神々である。またどちらも 言葉として同じ《恐れ》を持っていた。しかし この同じ《恐れ》も やはり同じく 八重垣への恐れ これを破壊することへの恐れであり しかも一方は 破壊してこの世で生きて喜ぶことじたいの恐れであり 他方は 破壊がそのやしろの死 そしてもはや永遠の死へ至らしめられることへの恐れであった。だからここで 《わたしはあえて言うが 高慢な者にとっては明白な罪に陥ることはかえって有益である。なぜなら かれらは先に自分を喜ばせることによって頽落したが 今はそれによって自分を憎むに至るからである》(神の国について14・13)と聞かれることには 《アマテラス‐スサノヲ》連関が 実に最高度に成熟するに至った現代においては 言葉として同じ《恐れ》を持ちつつ 等しく自己の欠陥を憎むようになるからである。八重垣は このようにして 新たな時代を迎えるようになるとしか わたしたちには考えられない。もし歴史が 過去から現在へ 現在から未来へと 発展でなくとも前進すると思われる場合には。
われわれは それがもはや外に向かって誰かに盾突くというのではない限り この糾弾をつづけよう。

けれども いっそう悪く いっそう罰に値するのは高慢である。人はそれにより 明白な罪を犯したばあいにも言い訳を探して逃げようとする。最初の人間たちがそうであって 女は《蛇がだましたので それを食べたのです》と言い 男は《あなたがくれた女がこれを木から取ってくれたので 食べたのです》と言った。ここには赦しを求める懇願も 癒しを求める叫びもまったく聞かれない。かれらはカインのように自分たちのなしたことを否認しなかったが かれらの高慢はその不正行為を他に帰するのを求めたのである。すなわち 女の高慢はそれを蛇に 男の高慢はそれを女に帰した。しかし 神の命令に対する違反が明らかになった以上 言い訳(エクスクサティオ)よりも糾弾(アクサティオ)がなされねばならなかった。なぜなら 女が蛇にだまされ 男が女から受け取ってなしたからと言って それが罪を犯したのでないことにはならないからである。それはまるで 信じかつ服従すべき神よりも他のもののほうを大事にするようなものである。
神の国について 14・14)

このように理解することによって 言葉として同じ《恐れ》を持ちつつ 等しく自己が糾弾されるように 自己の欠陥を憎むということが この第一の死ののち 等しく誰にも 復活してくるのです。なぜなら 誰もがみな この第一のアダムとエワ〔そして スサノヲの場合はちょうど スガの宮以前のスサノヲとアマテラスとの相似関係のように。あるいは イザナキ・イザナミにとって 初めに先に女であるイザナミが 《あなにやし えをとこを》と語ったことに代表されて そのときの二人のように〕の子孫であるからです。

  • 日本神話においては あとに 《楽園》とも言うべき情況(=スガの宮)が描かれるのは 特徴的かも知れません。逆に言いかえると 第一の死の前の状態つまり《楽園》が必ずしも表象されなかった。または 表象されても 表現されなかった。もっとも 聖書の《楽園 アダムとエワ》の神話も はじめてアブラハムが 神を見出して その史観が 遡及して 始祖アダム〔の創造〕を共同主観したと たしかに考えなくてはならない。また そのとき 《アブラハム》は《民の父》という意味の言葉であることより そしてかれがその子を神の犠牲に供せよと神に命じられた史観・史実が 父なる神と子なる神キリスト・イエスとを表わすとも見られることより このアブラハムは 複数の共同主観者の集まりであったとの解釈を容れられることと共に 当然のごとくかれらは 将来へ向けても 第二のアダムすなわちキリスト および かれを長子とする全世界の共同主観者たち を前もって共同主観していたと考えられることが 付け加えられ得る。このような共同主観史観のもとに スサノヲのスガの宮などが 理解されなければならない。


もし以上のように アマアガリの時間(つまり結局 神の国〔の歴史〕)にかんして その時間を阻止しようとする者 すなわち高慢によって神に敵対する者・つまりわれわれ〔がそうであった〕に対する過程〔的な観想〕が 考察されたとするならば 次には アダムとエワとの関係のように 《妻籠みに》ということ すなわち 対の関係・家族のことが 観想されてゆくべきです。
妻籠みに〔心の内なる〕八重垣を作る》という基本的な命題は 次の文章に読み取られるべきと考える。

神は人類を祝福して 《殖えかつ増して 地に満てよ》と言われたが この祝福が楽園に置かれた夫婦の欲情――かれらはこれを恥じてその器官を掩った――によって実現したと わたしたちは考えてはならない。なぜなら その欲情は罪のうちに起こったからである。すなわち 人間は罪ののちに 身体のすべての部分が仕えていた力を失って恥を知り 欲情を感じ 裸に気づき 顔を赤らめ 恥部を掩ったのである。二人が結ばれて子を産み 殖え増して地を満たせという結婚の祝福は 堕落のあとも残っているが もともと堕落する前に与えられたのであり それゆえ子孫を殖やすことは結婚の冠であって 決して罪の罰に属するのではないことが明らかである。

  • われわれのこの第七章の主題は このことと密接にかんれんしていたのでした。

けれども今 人間はかつて楽園の中にあった幸いをまったく知らず そのあとで知った欲情のゆえに結婚の冠をも恥じ これによってでなければ子を産むことはできないと思うようになった。
神の国について 14・21)

したがって この文章が重要であります。以下議論でも 一つの土台として われわれのもとに置きたいと思うものです。
認識されるべき基本的な事項を 箇条書きにして掲げ この節を終えることとします。

  1. 楽園では 欲情を知らなかった。
  • しかし 情欲のない性交はあった。
  • これは いまわれわれが問い求めている《欲情のない生殖》そのものではなく 善悪を知る木から実を食べる(時間を知る)前のそれである。
  • 蛇にそそのかされて木の実を食べて 欲情を感じ 恥を知り裸に気づき 顔を赤らめ 恥部を掩った。(恥部という言葉が生じた)。
  • しかし 結婚の祝福は この墜落の前に与えられていた。
  • かつ 墜落のあとにも 結婚の祝福は 残っている。
  • それゆえ 子孫を殖やすことは 結婚の冠である。
  • 現在のわれわれは 欲情のゆえに この結婚の冠をも恥じるほどである。
  • この欲情によってでなければ 子を産むことはできないと思うようになった。
  • 死の木から実を食べた罪は 人間についてまわる。最終的に死が滅ぼされるということは この可死的な身体のもとある限り まったくそうであるようになるということではない。つまり 欲情もついてまわる。
  • しかし ふたたび 婚姻の祝福は 基本的に いかも与えられている。
  • しかし このような諸条件のもとにおいて 欲情のない生殖は 時として 実現するのである(本章第二節)。

(つづく→2007-10-15 - caguirofie071015)