#147
第三部 キリスト史観
第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》
第二節b 欲情のない生殖としてのアマアガリの時間
・・・アウグスティヌス自身は 次のように すでに引用した言葉にあったように《弁明》しつつ しかしその中にも さらに史観を正当にも展開させている。人は このキリスト者 地上におけるこのキリスト者を見なければならない。
わたしたちが今 述べていることは 今日では恥ずべきことである。わたしたちは それが恥ずかしく感じられる以前はどうであったかを可能な限り考えてきたが この議論は役立たない雄弁を用いて先へ進めるよりは むしろ羞恥心の訴えによって抑制するのがよいであろう。というのも わたしが述べたことを経験できたはづの人びとでさえ 実際には経験しなかったとすれば(なぜならかれらはすでに罪を犯していた〔第一の死を死んでいた〕ので 落ち着いた心で子を産むわざに入る前に楽園追放の報いを受けていたからである) たといこうしたことを想起したとしても 今日それがどのようにして恥ずべき欲情を経験しないで――おだやかな意志の判断を〔経験しないで〕ではなくて―― 人間の感覚器官に起こりうるだろうか。それゆえ 以上の話は問題を考える者にとって決して根拠のないものではないとしても 恥の感情がこれを妨げることになる。
(神の国について 承前)
中で 《わたしが述べたことを経験できたはづの人びとでさえ 実際には経験しなかったとすれば(なぜならかれらはすでに罪を犯していた〔第一の死を死んでいた〕ので 落ち着いた心で子を産むわざに入る前に楽園追放の報いを受けていたからである)》という箇所については こう考えられる。つまり ここで正当にも言えることはこうである。スサノヲが アマテラスとの《うけひ》という賭けの際に オシホミミらの子を産んだのであるが これがかれにとって第一の死であるとするなら かれはイヅモに落ち伸びるようにして そこで クシナダヒメとの婚姻において あたかも欲情のない生殖を実現するかのように 復活したのである。あるいは 光源氏は まづ人間として生まれたからには 罪=第一の死をそのはじめに免れていなかった。いなかったが その最初の女――性交渉の相手としての最初の女――である空蝉との関係で 《あなにやし えをとめを》の道を尽くしたにもかかわらず つれなく拒否された。この拒否を――のちに《ねたう(こしゃくな と)思し出》でつつも――引き受けたところで かれはあたかも はじめの対(つい)の関係で 復活がなったのである。だからそのあと あの夕顔という女性とのあいだに あたかもアマアガリの時間を見出してのように 子を生んだのである。夕顔がもし このかれの時間について行けなかったとするなら その時代の環境から来る制約もさることながら かのじょは その子・玉鬘を遺して死んだのである。《死を拒むなら そむく者となろう》。
要するに このいまの羞恥心は 時間(時間知)の獲得という第一の死から来るものであり 霊の人となるアマアガリの時間においては 構造的に揚棄されるということが――つまり 羞恥心を保存しつつも――時として 実現するのである。イザナキ しかり。スサノヲ しかり。光源氏 しかりである。
だから ここでアウグスティヌスが言おうとしていることは 《恥の感情(それはあの時間知の獲得から――子孫に受け継がれてのように――来る)が このアマアガリの時間を妨げることになる》というとき それは 《話をすることを妨げる》のだが――もしくは 現代では それは禁忌ではなかったりするのだが―― 《アマアガリを妨げないことがありうる》と言っているのでないなら 人間の史観は何と言うべきでしょうか。《信仰によって 希望においてわれわれは すくわれている》というとき それは確かに 《将来すべき栄光》を意味表示しているのであるが この《将来》という時間は 現在において裏打ちされている。いやむしろ 主観の中には隠れて現在している〔という信仰 しかも愛という行為過程〕でないなら 何と言うべきであろうか。
むろんこのことは 欲情のない生殖という対の関係におけるアマアガリの時間を見出そうとするかのように そこに信を置くことではなくて スサノヲ者のアマアガリを約束するお方の知恵・力・はかりごとへの信仰が つまり性〔関係〕としてではなく まづ主観が 第一に来るものでなければならない。
- これは 大前提としたことである。つまりふたたび言いかえると 〔性〕関係もたしかに大事であるというときには 互いに第一人称としての主観の共同化という関係がであって たとえば《欲情のない生殖》という観念の共同化された関係ではない。また 観念(あるいは身体)の共同化もしない。アマテラス語理論の共有という精神的な(だから 同じく身体的な)関係がでもない。信仰をではなく 精神を 第一とする場合でも 霊(現実)を肉的に求め 肉を肉的に避けている場合が多いのである。
したがって
ところで――とやはりアウグスティヌスがつづけて述べることは―― 全能者たる神はすべての自然本性の最高かつ最大に善い創造者であり 善い意志を助け 報い 悪い意志を拒否し 罰し しかもその両方を秩序づける方である。この神は 知恵をもって預定したその国の市民の一定の数を満たすために 罰せられた人類の中から選び出そうと計画していた。しかし人類全体がいわば傷ついた根元において罰せられた魂となったので かれらを功績に従ってではなく むしろ恩恵によって選び分かち それによって 救いを得た者のみならず救いを得ない者についてもどれほど寛大な扱いがなされるかを示したのである。・・・それゆえ 神は人間が罪を犯すのを予知していたならばこれを創造すべきではなかったという主張には 正当な理由はない。なぜなら かれらがどれだけ罰に値するか しかしどれだけの恩恵が与えられるかを 神はかれらに対し またかれらをつうじて示すことができたからである。
(神の国について 承前 14・26)
と観想しつつ 説くのである。
このように 神の力を顕揚することは あたかも人間の頭に 被せてはならない蔽いをかぶせることのようであるが それは いま律法・アマテラス語理論のもとに 被せられている蔽いを取り除くためという以上に 主観の内なるやしろに神を見出すことは そのこと自体において――たとえば具体的に 性の関係におけるそれとしても――すでにこの顔蔽いが取り除かれていることを知るゆえにである。現代において やしろの現象として セックスがその大きなものの一つであることが その顔蔽いを基本的に取り除いたかたちのもとに現われているとするなら それは 上の議論とともにその観想が 獲得されるためであると 我田引水ふうに言うことのほうが 現実的であると知るゆえにである。
あの源氏の好色は――その事実じたいに 時代の制約とともに 非難されるべき欠陥があるとは言え―― かれの主観の中には むしろ顔蔽いが取り除かれていたがゆえにであり その《好き者》という顔蔽いは むしろ《時間知の側にあって 恥ぢの感情によって妨げられる世の人びと》にかけられていた蔽いなのであるとも言える。(ただし この蔽いが史観の外でまったく取り除かれるべきであるとは考えないが。つまりそれは 源氏があたかもフィクションであるという程度に相応してというように)。むろん あの六条院の四季の構図といった一夫多妻 あるいはその裏返しとしての一婦多夫が 非難されるべき――それは その行為事実に対してというよりも あの第一の死という墜落のまま 復活もせず つまり復活の史観じたいが 顔蔽いをかけられたまま(現時ののちの欠陥は これである)であるその時間的存在の眠りが 非難されるべき――であるが。
次節に 受け継ぎたい。
(つづく→2007-10-10 - caguirofie071010)