caguirofie

哲学いろいろ

#146

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第七章 《妻籠みに八重垣作る その八重垣を》

第二節a 欲情のない生殖としてのアマアガリの時間

市民社会学原論》では 対(つい・男女両性)の関係として 愛欲の多角的な関係形式と唯一なる関係形式との関係といった角度から論じました。そこでも たしかに 《妻をこもらせるために》から《妻とともに》への史観における動態が見られたわけですが そしてそれは 〔第一および第二の〕死がその過程に必然のものであるとするなら 《源氏物語》にはこの死の問題は むしろ濃厚に問われているとも見なければならないのですが いま
いま 要は 第一のスサノヲから第三のスサノヲへのアマアガリ過程 これに焦点をあててみたいと思います。やはりここでも そのように出発したいということですし おそらくすでに出発しているということになると思います。
スサノヲ(男)の問題は 第二部にも触れたように あのヨアキムの妻であるスサンナ(女)の問題であり もしくそれは スサノヲとクシナダヒメの一つの問題であり つまりヨアキムとスサンナとの一つの問題でもあったというそのことにおいて やはり一般に人間のアマアガリの問題であるに尽きるともまづ 前提としては言って(確認して)いなければなりません。つまり 両性の対関係の一つの問題というのは 内なるおよび外なる人もしくはやしろの各自が担う・そして二人一組が担う社会的な或る職務の問題であると。

  • ちなみに 《妻とともに》という視点は 婦人の社会的な地位や職務の問題として この前提に立って 言わずと知れた現代の課題でもあります。

言いかえると 《妻籠みに八重垣作るその八重垣を》というその八重垣なるやしろ(八域・八代・八城あるいは屋代)が 内なる人のやしろとして だから まづ性の異同の以前の――神に性はないが――時間的存在として あくまであのアマアガリがいかにあるかという視点 これをまづ くどいようになお 大前提としていなければならないでしょう。
そうして この前提が持たれたならば 《妻籠みに》の問題は いろんな角度・分野から論じられるであるけれど ここではすでに言ったように 基本的な考察に沿うようにして 進めていきたいと思う点です。新しいムラ エルサレムが この神の国 内なるスガのミヤにほかならなかったわけですから。

  • 念のために言っておきますが このようにくどくどと すでにあのアマアガリの時間は十分にというまでに論じたのに 言葉を重ねることは 一つにキリスト史観を理論体系化するためでは毛頭なく ただ 或る程度の量と範囲で思念を 表現=疎外して論議しておくことが その表現されたことを知識として共有するためではなく むしろそれを無化してしまって 自己のもの(史観)とするというためであります。すでにこの表現れるべきものが その人の内なるやしろ(つまり史観)において 外なる行為と分離されつつもいわゆる疎外としてではなく・つまりよそよそしくなったものとしてではなく 保たれている人にあっては 不必要なものです。いづれにしても 或る程度の表現の終わりまで つまりその終えられたとき始められるべき地点まで わたしたちは 考察をつづけたいと思います。

神の国について》第十四巻は 訳者(泉治典)による解説によれば 全体として 次のような構成であると把握されます。

   第十四巻 欲情


   第一項 欲情と情念        1−20章
    A 欲情。愛に生きること      (1−5章)
    B 情念の道徳的価値        (6−9章)
    C 情念の起源。罪         (10−15章)
    D 肉的な情念           (16−20章)
   第二項 欲情のない生殖      21−26(前半)章
   第三項 結語。摂理と二つの国   26(後半)−28章


この構成の把握から言えることは 《第三項》の《摂理(第二のアダムの道)と二つの国》ということであり ここで《二つの国》は 説明として 《その一つは肉に従って生きることを選ぶ人間たちの国と いま一つは霊に従って生きることを選ぶ人間たちの国》とであり また
イヅモなるやしろにおいては 動態的に
(1) 《アシナヅチテナヅチの代》から 《スサノヲとクシナダヒメの代 その新しいスガの宮》に移ったということがそれであり あるいは
(2) 第一のスサノヲの世代から その子孫であるオホクニヌシの世代に移ったということ さらに
(3) このオホクニヌシのイヅモ・コミューヌが あたかもタカマノハラA圏に《国譲り》して それとA‐S連関体制を採ったというように その敗北において単独分立A圏を 《八重垣》から分離して《九重》に追いやったというほどに かえって勝利を保留しつつおさめるということ また
(4) 現代の課題として このオホクニヌシ・デモクラシの勝利を取り戻してのように 国家なるA‐S連関体制を イヅモ・コミューヌをもとにして衣替えさせるということ
等々 これらが 内なる史観においてまづ確認・確立されることであり これが
これが いまは 《妻とともに 新しい八重垣を作る》ということでなければならない。
このことは いまの主題にのっとって その巻構成の中の《第二項 欲情のない生殖》という命題に あたかも あるいは正当にも 帰されるべき やしろのかたちでなければならない。このことを時間的存在は 第三のアダムとして 時として実現するのであるとは キリスト史観の骨子であると思われるのです。


ここでは 章別構成のその順序にのっとらずに 論点ごとに結論的な視点を 引用しつつ論議して 明らかにしてゆきたい。
《欲情のない生殖》にかんしては 《詳しく論じようとすれば羞恥心が抵抗し 清らかな耳のために弁明し許しを乞わなければならないのであるが》(14・23)と 別の箇所で著者アウグスティヌスは断わりつつ 次のように考察する。

最初の人間たち(アダムとエワ。また 単純な類推による類型として スサノヲとクシナダヒメ もしくは イザナキとイザナミ)の生活が このように(つまりこれは《神の命令に安んじて従う忠実さがあった》ように という意味) 容易に幸いであったとすれば かれらが欲情の伝染なしに 子を産むことができなかったと想像するのは間違いである。

  • イザナキが《あなにやし えをとめを》と そしてイザナミが《あなにやし えをとこを》と言ったからといって 欲情の伝染があったとは言えない。この点 引用のあとに考察する。

かれらの性的器官はむしろ他の器官と同じように意志の指図によって動いたのである。

  • もしただ この人間の意志の指図によって動かなかったとするなら それは あのイザナキ・イザナミの場合 はじめに女であるイザナミのほうから 《あなにやし えをとこを》と声をかけたことによる。そのばあい実際には 《蛭子》が生まれ これは河に流したと記されるのであるが はじめに声をかけるのは逆でなければならないと命じたのは カミガミもしくは一つなる神である。ここで 順立の関係(アマアガリ)が理解されるべきであろう。(ただし 男が先か 女が先かの文字通りのことなのかは 分からない)。

そこで夫は激情にそそのかされることなく 心の平静を乱さず 身体の丈夫さをこわすことなしに 妻の胎内に液を注いだ。さらに わたしたちは経験によって確かめられないとしても 身体のこれらの部分が情熱のさわぎに左右されず むしろ必要に応じて 自発的な力によって結ばれたということを信じてならぬ理由はないのである。

  • スサノヲの《スガの宮》は むしろかれらの身体に樹立されたのである。

したがって そのとき夫の精液は 妻の処女性をこわさずにその子宮内に入ったが これは今日 同じく処女性をこわさずに処女の子宮から月経が流れ出るのと同じである。すなわち 精液は月経が出るのと同じ通路をとおって入って行く。ちょうど分娩にあたって 時が満ちれば陣痛で苦しまないでも 自然の衝動により女の胎が開くように 両方の性を結びつけて受精させ受胎させるものは 欲情のもとのではなくて意志の働きなのである。
神の国について 14・26)

わたしたちは この文章を ただ《アマアガリの時間には 〈欲情のない生殖〉が時として実現するのである》と 抽象的に述べるだけでは つまりアマテラス語による標語だけでは キリスト史観が理解されないであろうと――むしろ誤解されるであろうと―― 或る種 人間的に推量して 引用するに到ったのであるが アウグスティヌス自身は 次のように すでに引用した言葉にあったように《弁明》しつつ しかしその中にも さらに史観を正当にも展開させている。人は このキリスト者 地上におけるキリスト者 を見なければならない。

(つづく→2007-10-09 - caguirofie071009)