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哲学いろいろ

#200

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第三十四章 イエスの復活が 人間の復活である

《墓に葬られる》

(参照箇所:マタイ27:57−61 マルコ15:42−47 ルカ23:50−56)

その後 イエスの弟子でありながら ユダヤ人たちを恐れて そのことを隠していたハリマタヤ出身のヨセフが イエスの遺体を取り降ろしたいと ピラトに願い出た。ピラトが許したので ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ 以前 夜イエスのところに来たことのあるニコデモも 没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って やって来た。かれらはイエスの遺体を受け取り ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって 香油を塗り 亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり そこには 誰もまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の《準備の日》であり この墓が近かったので そこにイエスを納めた。
ヨハネによる福音19:38−41)

このあと 《週の初めの日の朝早く マグダラのマリアは墓に行った。・・・》とつづく。

あくる日 すなわち《準備の日》の翌日 祭司長たちとファリサイ派の人びとは ピラトのところに集まって こう言った。
  ――閣下 あの詐欺師がまだ生きていたとき 《自分は三日後に復活する》と言っていたのを わたしたちは思い出しました。ですから 三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと 弟子たちが来て死体を盗み出し 《イエスは死者の中から復活した》などと民衆に言いふらすかも知れません。そうなると 人びとは前よりもひどくだまされることになります。
(マタイ27:62−64)

というようにして また番兵を見張りに立たせつつ 安息日が終わって 週の初めの日の明け方に イエスは復活した。
準備の日の朝九時に イエスは十字架につけられ その日の昼十二時から三時まで 暗くなり 三時ごろ イエスは 《エリ エリ ラマ サバクタニ》 もしくは 《すべてのことが今や成し遂げられたことを知り 〈のどが渇く〉と言った》。このあと 息を引き取られたのである。そうして 夕方六時ごろ 墓に葬られ 明くる安息日の一日を措いて 三日目の朝六時ごろにマリアに復活した。
夕方の六時から朝の六時まで 夜の十二時間が 二度 つまり 十二時間かける二で 二十四時間。朝から昼へ 昼から夕への 六時から六時まで つまり昼の十二時間が 安息日のそれとして 一度 したがって 十二時間〔かける一〕(三位一体論4・6〔10〕)。
スサノヲ者の《一日》の構成は 朝から昼 昼から夕へ そして夕は 夜へは渡されずに 次の朝へ〔という二十四時間〕である。もっぱらのアマテラス者の《一日》は アマテラス領域〔時間〕とツクヨミとを合わせるようにして 昼の十二時間と夜の十二時間で つごう二十四時間という構成から成っている。
しかるに 死んだイエスの死(埋葬された時間)から復活(光)までのあいだの時間は 昼の十二時間が一回と 夜の十二時間が二回 つごう三十六時間から成る。罪なくして死んだ・また 死の制作者なる悪魔をそれによって征服するにふさわしい死をもって死んだイエスの死は ここで 人間の二重の死に値するのである(三位一体論4・2〔4〕)。
一回目の夜の十二時間という死は 人間として第一のアダムの子孫であることによるその時間的存在の終わりである死。二回目の夜の十二時間という死は あたかも神の貌として第二のアダムというように はじめの夜の十二時間の死を死なせて アウフヘーベンする意味での死。そうして 一回そこにはさまれた昼の十二時間は このようにして 夜へは渡されずに 三日目の朝 復活する朝を迎えるのである。(三位一体論4・6〔10〕)。
スサノヲ者は あたかもむしろ夜から一日が始まるというようにして その十二時間を戦い 睡眠の身体の休息を摂って 次の朝を迎える。かれは 《日々 死んでいる》なら《日々 生きている(よみがえっている)》というように キリストの死と復活によって 夜へは渡されずに つまり死の制作者である悪魔に 夜の十二時間を含んだアマテラス者の一日のなかで 捕獲されていた者が キリストによる悪魔の征服によって 悪魔はかれらを放免せざるをえなくなり 放免されて このキリストを長子とする人間のともがらとなって 新しい《一日》を構成している。(三位一体論13・18〔23〕)。
これは やしろとしては 市民社会・ヤシロ・S圏・ムラ・エクレシア自治態勢の A圏スーパーヤシロに対する勝利にほかならない。
《イエスは苦しみを受けて死んでから後も 自分が生きていることを数多くの証拠をもって示し 四十日にわたって使徒たちに現われ 神の国について話した》(使徒行伝1:3)ことが その後 ルカによって 伝えられている。いま 方程式の図式的な確認としても

そして かれらと一緒に食事をしていたとき 次のように命じた。
  ――エルサレムを離れず 前にわたしから聞いた約束が実現するのを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが お前たちは近いうちに聖霊による洗礼を受けるからである。
使徒行伝1:4−5)

聖霊によるバプテスマ または アマアガリの時間を 弟子たちが受けるくだりは 同じくルカによれば 次のごとく。

旬祭の日が来て 一同が一緒に集まっていると 突然 激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ かれらが坐っていた家中に響いた。そして 火のような舌が分かれて現われ 一人ひとりの上にとどまった。すると 一同は聖霊に満たされ 聖霊が話させるままに いろいろな外国語で話しだした。
使徒行伝2:1−4)

これは イエスがすでに天に挙げられたあとである。天から弟子たちに聖霊をくだされたときのことである。そこで イエスのアマアガリについて また 弟子たちが《いろいろな外国語で話しだした》わけについて

そこで〔弟子たちが食事をしていた場で 復活のイエスが 約束の聖霊について語り 命じた(1:4−5)あと〕 集まっていた使徒たちが
  ――主よ イスラエルのために国を建て直して下さるのは 今ですか。
と尋ねると イエスは答えた。
  ――父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は お前たちの知るところではない。お前たちの上に聖霊が降ると お前たちは力を受ける。そして エルサレムのばかりでなく 全ユダヤで サマリアで また地の果てに至るまでわたしの証人となるであろう。
こう話し終わると イエス使徒たちが見ているうちに天に上げられたが 雲に覆われてかれらの目から見えなくなった。イエスが離れ去っていくとき 使徒たちは天を見つめていた。すると 白い服を着た二人の男がそばに立って言った。
  ――ガリラヤの人たち なぜ天を見上げて立っているのか。あなたたちから離れて天に上げられたイエスは 天に行かれるのをお前たちが見たのと同じありさまで またおいでにになる。
使徒行伝1:6−11)

このあと すでに見たように 使徒たちに聖霊が降ったのであるから 《イスラエルのために国を建て直してくださる時》が その後 始まったと考えられる。わたしは これまで 聖書の記事を引いたまでで 何も論議して来なかったとも言わなければならないが これで 神の貌として・そして人間の貌としてのイエスの史観の原理または史観の方程式 そしてこの方程式の具体的な展開を ペテロあるいはユダ ないし やしろの次元にあてはめてのように 見て来 その《第一の死‐復活‐第二の死の方向転換というアマアガリ》という三つの基軸のそれぞれについて 論議の場を問い求め見出しても来た。つまりこれで ひととおりの全体をながめ渡したことになるのだが これらに対して いま何と言うべきであろうか。
使徒パウロの書簡のような証言はこれを引用したのみであり 教師アウグスティヌスの《三位一体》についての尋究には 到達することもかなわず わづかに論議の資料を集めて これを一連の場に上げたにすぎないのだが われわれは何と言うべきであろうか。
この後 残された紙幅で わづかながらとも それについての論議を問い求めてゆきたいと思う。
(つづく→2007-12-03 - caguirofie071203)