caguirofie

哲学いろいろ

#119

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第三節b 三位一体

愛は 身体を基体とする精神〔の秘所〕において 人間存在の核とも言うべき記憶の中にあまづ起こる。記憶の中の愛は 或る形相もしくは視像となっているだろう。人間の知解力は この視像からの視像を取り出して 愛を認識する。そうしてこの愛は 第三の意志が むしろ時間過程的にその都度 或る行為(または非行動)へとみちびき 同じくそれを 第三の行為能力としての愛とするであろう。
この人間の三一性は すべて有限・偶有・可変的な時間過程の中にある。人間は 偶有的などうでもよい(自由な)時間の中にあるから この三一性は あの三位一体に裏打ちされてのように そこに意志(だから 史観とも言うべき三一性主体の全体)の或る変化が生じたなら――つまりまた 判断・決断を生じたなら―― それに伴なう行為は 主観真実であって 共同主観たりうる。共同主観たりうるとき その限りで(つまり 人間と人間との関係の中で) どうでもよいものでないようになる。
つまり 自由が 自由でなくなる。あるいは もともと不自由な関係また やしろの中にあり 自由な者として生まれてきたとき その不自由との関係の中で その本性つまり自由を実現しようとする。
ただし この真実が そのまま絶対的な真理でないことは言うまでもない。それは 主観的かつ共同主観的な一つの真実が 本質的に《社会的諸関係の総和》を意味しつつ 具体現実的に その《総和》としても 或る種 不自由を 同時に 体現しているということではない。そのように解するとき つまり言いかえると 主観としての三一性主体が みな 《社会的諸関係の総体》なる経験世界の枠組みの中に捉えられ もしくは高々その枠組みじたいまでであると観想されるとするなら この《総体》の歴史的・内部的な発展は 本質的に 自由か不自由かのいづれかの一元的な流れでしかないことになる。
もし それでよいとし たとえば《自由》の一元的な史観であるとするなら 唯物史観はそのように 現実をただ写したにすぎないか または 本質的にそうであると言うのであるからには 非本質的に自由でなくとも自由であると信じるような史観ということになる。わたしたちは 人間の本質は 神の似像であり この可変的・可死的・可壊敗的な存在が 神に固着するとき その真理はかれを自由にすると言う。この神が人間に宿りたまうから 人間の本質はそのまま自由であるということにはならない。だから この動態つまり 日から日へ変えられる三一性主体が その人間の本性を超えて神を見まつるとき 人間を 自己と同じようにというように 愛すると言う。
この愛は 自由から無縁でなく 真理に固着するとき 自由を裏切らない。主観の・齟齬えおともなった三一性なる真実が そのまま絶対的な真理であるということにはならないが この真理(これは 形相と捉えられても仕方がない)に固着するとき その愛においてあたかも《やしろの諸関係の全体》つまり自己の本性を働かせてのように どうでもよいもの(自由な関係または不自由な関係)が どうでもよいものでないもの(不自由または自由)になりうる。どうでもよいものでないようになったものも ふたたび どうでもよいものになりうる。
義理と人情なる偶有的にして必然的な世界が そのしがらみの栄光と虚偽とによって主観が 反面で 受けた損傷の癒やされることにより つまり 神に自由に隷属して 義理と人情を 或る意味で超えて 愛しつづけるとき 損傷の癒やされることにより いまひとつ新しい栄光 明るいかたちの栄光へ 変えられみちびかれるということが 時として実現するのです。これが 共同主観をとおして やしろの全体としても そうでなければならない。また 社会制度の変革は その一手段である。
神は父として いかなる時間のへだたりも無しに 神の知恵・力・神の言葉なる子を生みたまうた。ただし 父が 知恵でないのではなく 子は 知恵からの知恵である。――というふうに 三位一体を 〔もちろんそう語るまま存在したまうというようにではなく そう語られるのがふさわしいというように〕 あえぐようにしてでも問い求めることは 必要だと思うことから これをつづけるのですが それは反面で いわゆる学問的に 真理の探究に 自由があるとは必ずしも わたしたちは見ないからです。神を知ること・神に知られること 愛において神なる三位一体を見まつること これが自由にすると考えるからです。
いささか矛盾を孕んだ言い回しかも知れませんが それは言っておくべきだと思います。――不可視的存在である神において 子の父と父の子とのあいだに 神の本質としての愛が――時間的な懸隔なしに――生じるとき そこに発出されるものは 聖霊という実体である。父も愛であり 子も愛でありたまうが 第三の聖霊が愛であると言われるのは より一層ふさわしい。父と子との言詮を絶した交わりであると考えられるゆえ。
父は 創られずして創る本性を担いたまう。父は 子すなわち神の言葉によって 万物を創造された。この言葉によって造られなかったものは 何一つない。父は(もしくは 三位一体なる神は)子を 肉に造りたまうた。すなわち人間として遣わされた。子は もともとそのご自分の国である人間の歴史の中に派遣された。神のみ心を告知するためである。神の国すなわち永遠のいのちが 約束されているということである。
子は父とともに この永遠のいのちなる愛の保証金として 聖霊を遣わされる。聖霊は 人間のために 人間がこれを受け取るために遣わされたのである。ここで《すでに受け取ったなら まだ もらっていないと人間は自己を誇るべきではない》ことが理解される。《あなたたちは知らないのか。この身体は 聖霊の宿る神のやしろであることを》と。《あなたたちの身体は もはや自分自身のものであって 自分のものではない》ということ。聖霊――《現実》――は どこかほかに 何か幽霊のようにあるのではない。
だから 人間にとってキリストの戒めは――それがあるとするなら―― 神の愛と人間の愛とである。なんなら人は この戒めを この一点だけは 倫理規範としてもよい。ただ しかし それは 人間の守るべき人間の律法ではなく 神の律法としてであり 人間の知恵なるアマテラス概念(概念とは 受胎である)〔によるアマテラス言語(理論・思想・科学等)〕ではなく 永遠なる不可視的存在の観想に属し その不在なものの現在としてである。これが 永遠のいのち・すなわち人間にも与えられた神の国である。その余の人間の時間的なことがらは 偶有的にしてそれは 永遠のいのちを観想する主観の真実によって形成されるとき 人間の本性すなわち理性的動物なる人間の言葉の歴史である。しかし人は 経験的なことがらを超えて 人間の言葉に到達しなければならないと言われるのである。
人は あの十字架上にキリストとともにその古き人が 内なる人も外なる人も死んだとき すなわちその心の回転によって――理性的にでないなら 誰がこの回転を見るであろう―― この神の国の観想が(すなわち 古き人の死という 墜落と損傷と欠陥と虚偽の病いの治癒が―― 原理的に瞬時にして与えられる。しかもこの人間の病いの治療は あたかも主の霊によって日から日へ変えられるというように為されるのである。かれは 神の真のお姿を見るであろうと言われてのように。そうして神つまり肉における人間キリストに似る者とされるのである。これらすべて 試練に出遭う人間がこの試練をとおして 愛なる自由が あの神の似像にとどまるとき とどまりつつ前進するとき 真実に生起するのである。その余のことがらは 各主観における人間の生の多様性である。
これは 必ずしも キリスト史観として 一つだと言おうとするのではない。まして 共同主観の形態は 一つではないであろう。しかし神は一つなるお方にいましたまう。ゆえに 各主観は 多様でありうる。多様とは 一つなる原理(しかしこれは 不可視だ)のものとにでなければ 存在しない。だから 人間の言葉としては 神の前の良心の証しなる真実として ひとつのものであるキリスト史観と言う。人間の歴史の中に生きるゆえにである。神の言葉 そしてその弁護者(保証金)である聖霊は ほかならぬ人間に与えられたからである。かくも大いなる賜物とわれわれが言う《主の霊のあるところに 自由がある》。
この自由は 記憶(百科事典の知識)の自由ではなく 知解(理論・思想行為)の自由でもなく とりわけ愛なる自由でなければならない。しかしこの愛は 信仰(記憶)に始まり 知解する愛である。理性的な観想と行為によらなければ 神の似像はとどまらないからである。この愛によって 愛を愛するとき 人は神を見まつる。なぜなら 神は愛であるから。


恋を恋するとき 一般にそう言われるとき 人は この愛の入り口に立っている。そうして その幻想(むろん 身体の運動を伴なう)が破れるべくして破れたとき たとえばその試練をとおして 火をくぐり抜けてきた者のように すくわれる。(神の国を観想する。即ち愛なる自由に立つ)。恋とは 一般に 経済行為あるいは経営・政治行為におけるそれぞれ或る対象への恋である。(つまり 利潤追求にしろ何でもよい対象である)。恋の破局の地点で(それは 単なる身体的・その意味でのスサノヲ者的な精神のある未熟な表象とそれへのあこがれによるゆえ 破れるべくして破れる その破局の地点で) 人は その古き人を脱ぎ捨てるべく あの十字架の上に立て。かれは 内なる人つまりその魂さえもの死を経験して 神に見捨てられたと知解するとき その恋なるいまだ不敬虔である死をとおして この不敬虔の死が破壊されてのように 神は見捨てたまわなかったと知るのである。だからわれわれはその心が清められなければならなかったのである。
アマテラス語によるハライ(祓い)がこれを捨てて みづからの内なる理性的なミソギを為さしめられなければならなかったのである。
新しき人を着たこの自由に立つとき 人は 三位一体をいまだ知解しないであろう。ところが すでにかれは そのとき 三位一体なる神を見たのである。神は愛であるから。主の霊のあるところに自由がある。そうして人は 神の似像の内にとどまり なお飢え渇くといってのように 日から日へ変えられてゆくべく 神の似像以後の生を送るであろう。
神の国の真なる観想は この地上にあっていまだ保留された(――《誰もわたしの顔を見て生きてゆけないであろう》――)からであり 誰も独力で 神の国を生きる(それを告知する)資格はないからである。

私の威厳が通過するやいなや あなたは岩の上に立つであろう。
出エジプト記33:22)

といわれる。
主が復活して御父の御許に昇られるその栄光において主の威厳が移り行くや直ちに真実に私たちは岩の上に堅固にされて 堅固にされる前には恐れから三度 否認した(マタイ26:70−74)お方を確信をもって宣べ伝えたのである。確かにペテロは予定によってすでに岩の頂上に置かれていたが 主はなお御手をもってかれを蔽い 見るのを遮られたのである。ペテロは主の背面を他日 見るはづであったが 主は未だ たしかに死から生へ移り行かれず 未だ 復活によって栄光を受けていられなかったからである。
出エジプト記》ではつづいて次のように語る。

私が通り過ぎるまでは 私の手であなたを蔽うであろう。私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
出エジプト記33:22)

モーセはそのとき 主の復活後 かれらの眼から主の御手が除けられて 主の背面をすでに見ているように 主を信じた多くのイスラエル人の代表( figura )であった。・・・
(三位一体論2・17〔30−31〕)

しかし 私たちが主から離れて巡礼の旅路にあり あの直視(光輝)によらず 信仰によって歩む(コリント前書5:6−7)限りは キリストの背面 すなわちキリストの肉を 信仰によってこそ 言いかえると あの岩が意味表示している信仰の堅固な基礎に立ちつつ 見なければならない。キリストをこのようなこの上なく安全な望楼( specula )から つまりカトリック教会(――やしろ・キュリアコン――)から観なければならない。このカトリック教会(――なんなら《社会的諸関係の総体》――)については 

私はこの岩の上にわが教会( ecclesia )を打ち建てよう。
(マタイ16:18)

と主が語られる。
(三位一体論2・17〔28〕)

(つづく→caguirofie070912)