caguirofie

哲学いろいろ

#118

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第四章 神の似像の以後

第三節a 三位一体

人が人を あるいは或る美を 愛するならそこには すでに見たように 愛する者と愛されるものとそしてこれら二つを結ぶ愛そのものという三者が 存在します。それは 感覚についても たとえば 見る者(ないし視覚器官)と見られるものとそしてこれら二つのあいだに見られたという感覚そのもの(ないしその視像)の三者が 存在するようにであり これらは 時間過程的に 三一性をかたち作ります。感覚における三一性が 外なる人のそれであるとすれば 同じくこの外なる人において その見る人が 見られた視像をつうじて 見られたものとのあいだで それを美しいと感じて欲するとか あるいはそうでなく欲しないとかという意志を形成するというようにして 内なる感覚(つまり意志を含むようにしたそれ)もしくは 内なる人というべきものが生じるのを見る。したがって 人を・あるいは美を愛するというとき これは 内なる人において 愛する者と愛されるものとその愛(意志)という三一性がかたち作られることと考えられる。
また それらの中で 愛されるものが 人という他者そのものではなく あるいは美を持った物体などそのものではなく 何らか形相(イデア)において・つまりそのような抽象的なアマテラス概念において 捉えられるなら これら愛する者と愛されるものと愛とは 内なる人もしくはその主観の中に存在します。主観の中にそのような三一性が 存在します。
さらにまた 愛する者は そのような精神としての存在 ないし 記憶行為であると言うことが出来る。(つまり 対象が愛すべき対象であると 記憶において 想起されるというようにして むろんそのとき愛するのは この《わたし》であるが 人間の行為能力としては これを記憶行為ないし精神〔としての存在〕であるということが出来る)。
次に 愛されるものは その愛される対象であるというそのものを媒介としつつ 同時にこれから抽象された視像のごとき形相(――それはもちろん 物体や経験的・具体的な行為を離れるためではなく むしろそれを知解するために それをいま超えるためである――) したがって このとき 当然のように そこに 知解行為・形相の形成を伴なうでしょう。この知解行為は 主観の内にあっては やはり一つの人間の能力として――記憶が 第一の能力として 或る種はじめの・ないし初源的な視像であったとするなら この――視像からの視像であると考えられるでしょう。
いま 記憶も知解も 経験的な世界と相即的であることは言うまでもありませんが それらは 同じく分離連関であることを妨げません。
第三の行為能力である愛は これら記憶と知解とを結ぶもの 視像と視像からの視像とを――観念論に陥らずに あたかも形相の世界において 自己という現実の存在(それは しかし 可変的な似像としての存在であった)を把握し得てのように――つなぐものである。さらに言いかえると このような観想とそして実際には行為(言葉も行動と同じように行為でありうるが)において 方向性ないし力を持たせるようにして 記憶と知解の両者をつなぎ 人間の意志となって現われているそれであるでしょう。たとえば自然界あるいは社会を観想し これを知解し 一つの理論(テオーリアとは観想の意)を形成し そうしてなおかつ人間は 意志によってこれらを愛(正負の方向を含む)する。これが 人間の本性である《A者‐S者》連関としての主体が 観想ないし行為において 時間過程的に為す三一性であると言えます。
つまり具体的な個々の行為現実が そのように把握される・ないし表現されると言えます。また 何らかの自己の一つの目的としたその行為現実が 実現されたとき そのように実現された経験行為を人間が享受することが 実は目的であるとするなら この三一性は 経験行為じたいにあるのではなく むろんそれとの関係においてですが 人間なる主体の内にあると言っておかなければならないでしょう。目的の実現を享受するのは 人間であり その心〔と身体〕をとおしてですから。
したがって 当然のことながら この時間的な三一性過程は S者を基体としつつ A者をとおして これを行ないます。A者をとおしてとは これを 観念的に(=A者において・A者ス像物そのものとして)享受するのではないというほどのことを言っています。史観が愛と言われるときは この第三の愛によって特に 《A‐S連関主体》の全体が この三一性に関与すると言われることが より一層ふさわしいゆえです。
神は愛であり 人間は人間を愛するとき そこに神が見られるというのは この有限・時間的な三一性の過程に 神の似像がとどまるようにして 永遠・無時間的な神の像が観想されるからであり そのときにおいてです。神の似像にとどまるとは 自己の同一に留まる知恵の愛というほどに 経験行為と相即的でありつつ 形相の世界において 神の似像たる自己の同一にとどまるというふうにも 今度は言えるとき 経験行為を超えて そのように生き動きする経験的な自己という存在の現実的な根拠が 形相(アマテラス概念)をとおして 見られ信じられるということもありうるのです。なぜなら 神の似像は 不類似にして類似の神の似像であったから。
そのとき人は 観念的な・観念的に表象された神を 超えよ。なぜなら 形相の世界にとどまるようにして 形相をとおして神を見祀るというとき 人間は なお経験的な存在でしかないから。
したがって 形相をとおして人は神を見祀るというときそれは この経験的な世界の中で ぼんやりとこの鏡(経験世界)に映ったその像をしか見ていない。しかし このようなとき人間は もし人間の本性を超えるべきであるとするなら・超えて自己の現実を問い求めるべきであるとするなら 創られずして創る本性としての〔不可視的・不可変の存在なる〕神を見なければならない。人間の本性を超えるなら その人間の時間的な三一性を超えて(しかも この経験的な三一性をとおしてだが) 至高の三位一体である神が見られるということ この神が自己の存在の根拠であったとするなら かれによってわれわれは 生き動き存在するということ これを問い求めることが 人間にとっての神の国の歴史であったことです。
人間の三一性なる愛を超えて しかしそれをとおして 神の愛が見出されなければならない。しかし神の国は 地上の国・経験的な世界とその国境を明確に分けて存在するものではないと考えられた。《わたしの国はこの世に属していない》とイエスは語られたが それはわれわれが かれに似る者となるであろう人間キリスト・イエスとして語られたのであったから。《わたしは道だ》と言われたのであったから。
そこで 三位一体なる神と 三一性なる神の似像つまりわれわれ人間との 不類似の類似 これを問い求めることが さしあたっての課題です。
いま図式的に言ってしまうなら 精神における人間の記憶・その視像が 父なる神〔の位格・ペルソナ〕に 次に 人間の知解つまり視像からの視像が 子なる神に そして最後に 人間の愛つまり意志が 聖霊なる神に それぞれあたかも当てはめられるようにして まづ捉えられます。ところが神は 永遠・不可視的な存在でありたまう。いかなる時間的な懸隔なしに これら三つのペルソナを持って存在したまう一つの本質である。
わたしたちは 神の言葉が人間に臨むことによって このように二つのかたちで表現することができるというのが もしこれを 人間が人間の言葉で神を造ったそれであるというのなら それでもよい。ただ たとえば《社会的諸関係の総体》が人間の本質・本性であると言うとするとき このような人間の自己の現実が 実現するのは この人間の本性を超えて存在したまうお方によって生き動き存在するとき つまり神を愛することによってであると考えるのであり 言いかえると 人間が自己の・人間の本性すなわち《社会的諸関係なる諸三一性の過程の総体》を 人間的な尺度で知解することによってのみではない。また ただこの人間的な知解(理論)を愛し実践することによってではないと言おうとしている。
後者の場合は 人間は 部分的に・つまり部分を全体としてのように 諸三一性主体の相度錯綜するやしろの全体の中で むろん歴史的に進展もしつつ しかしむしろ堂々巡りを行なっているか もしくは すでに永遠の昔から 人間の本性を実現し自己還帰を獲得していると言わなければならないであろう。なぜなら そのような人間の本質が まだ把握されていなかったか 十分 自覚されるようになったかの違いにしか過ぎないであろうから。だから われわれは 創られずして創る本性でいます神を まだぼんやりとながら つまり鏡をとおしてあの謎において 見まつることを問い求めることへ進む。
父が子を生みたまうたのであり この父との愛によって 第三の聖霊がそこから発出したまうのであり これらはすべて時間的なへだたりなく 存在したまう。
創造者なる神は 父が子によって すなわち神の言葉によって 万物を創られた。神はその子すなわち神の言葉を 人間に造られた。父とそして子は キリストの名によって かれらから発出したまう聖霊を 人間に派遣したまう。全世界は キリストすなわち神の言葉の証言であり この神の〔言葉の〕国が人間に与えられたことの保証金(手付け)が 聖霊の派遣である。神の国の観想が 人間には保留されつつ与えられていることは 聖霊が使わされていることによる。
しかし 父と子と聖霊とは 神の三つのペルソナであるが 三位格は一体であり 一つの本質として神でありたまう。
人間の三一性は 一個の人間 一個のペルソナたる主観の中に起こることがらである。一個のペルソナが 三つの行為能力を持つ。記憶と知解と愛とは 三つの行為能力として人間の有であり その三一性をとおして 三つのペルソナにして一つの本質でありたまう神が見られる。人間という一個のペルソナの中の三つの行為能力であるがゆえに その三一性は 時間的な齟齬をともなって 神の似像である。神の三つのペルソナは 時間の間隔なくして三つの実体であることにより 三位一体である。しかも一つの神でいたまう。
(つづく→caguirofie070911