caguirofie

哲学いろいろ

上村静

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 いくらか重たい主題が残っているようです。

 ★(No.7お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 以下のような捉え方でよろしかったでしょうか。
 「民族宗教であったユダヤ教から民族という枠を飛び越え、ユダヤの戒律と決別し、普遍宗教としてあまねく人びとを救済していった」
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 ☆ 次のように考えます。

 1. エワやアダムをそそのかした――ほんとうは かれらが内面においてそういった心の・意志の片向きを持ってしまって 悩み戸惑い考えて行ったということだとは思うのですが そこに物語としては登場して来たところの――蛇を ユダヤ民族は あたかも悪魔と見なしたのですから そのチカラと闘った。つまり イエスは 民族の一員として蛇なる悪魔のハタラキに立ち向かった。

 2. モーセのときにも《青銅の蛇》の話が出て来ているからには この蛇との戦いは 民族に固有のものだと捉えられる。

 3. ですから ユダイズムという枠の中で おのが民族のために闘った。そう生きたし またそのために死んだ。神の子を名乗ったという違反が 高等法院の人びとから咎められたわけで そのことで処罰されるというようなユダイズムにも従った。

 4. つまり まだ《ねたむ神》とも呼ばれた民族の神にしたがい 非常に窮屈な律法のもとで生きることをつらぬいた。それゆえ イザヤ書エレミヤ書の預言などが 成就し むしろユダイズムは開かれて行った。神がみづからを 一段と高いところに揚げて もう民族の神であることを捨てたわけですから。

 5. パウロが 律法を 隣人愛をとおして 全うするのだと言ったのは むろんイエスの言葉に拠っています。
 ▲ (マタイ福音5:17ー18) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 17:  わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
 18:  まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
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 6. ユダイズムに従うことによって その民族としての特殊性や片寄りを超えて 普遍なる神を指し示そうとしたのだと思います。

 7. 言いかえると モーセの律法が あたかも民衆の集団としての秩序をまもるために与えられたのだと言おうとするかのように もうそのような集団としての規範は 要らないと言った。少なくとも その交通規範が 《神》なのではないとはっきりと伝えた。集団ないし組織の倫理規範が オシエをかかげる宗教であると理論づけた。これは 要らないのだと。

 8. つまりは 普遍なる神を指し示した。つまり 個人の信仰の問題をのみ扱うようにした。《すくい》は そのようにおのおの主観内面の問題だと示した。決して オシエとしての・組織としての・社会的な権威によるものとしての《救済行為》ではないのだと。
 《すくい》は 目に見えない。(パウロは 宣教をおこなったが オシエを組織宗教としてかかげ触れ回れと言ったわけではないはずです)。


 9. 神という神は 名が違っても すべて全体としてひとつである。と 言わず語らずに宣言した。これは 今ならノーベル賞ものだと思います。(もっとも 日本人は この命題ないしこの思いは ごくふつうに自然に持っているようですが)。



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 ところでbragelonneさん、これは素朴な疑問なのですが、
 イエスその人本人は、後を託したパウロの行いや教え、死後自分が三位一体云々と祀り上げられたことについて、いったいどのように思っているのでしょうね。ちょっと気になりました。

 イエスの思想とパウロの思想では相反するものも少なくありません。
 キリスト教の本質としては、はたしていったいどちらなのでしょう。
 それとも、このようなことを考えること自体意味の無いことなのでしょうか。
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 ☆ 基本として言って 《わたしにとって生きることは キリスト〔を生きること〕である》と言ったパウロですから 《相反するもの》は無いと思うのですが ありますか?

 あるいは
 ▲ (パウロ:ガラテア書5:24) キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 ☆ とも言っているのですが どうでしょう。


 ★ 三位一体なる神
 ☆ については ヨハネ福音を主なものとする聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。

 すべてをいまは端折りますが この神論が経験思想の舞台にかかわるとすれば 次のような想定じょうの認識になるとわたし自身は 捉えています。

 つまり
 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ というくだりを活かして 次の図式が得られると理解します。 

 ○ (ひとは カミの似像である。) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
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 ☆ 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら 子の父は 光源であり 父の子は その発耀であり 父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさであるというものです。そこには 時間的なへだたりはなく 一体である。また 三つの位格に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。

 父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に そして聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》にそれぞれ当てはまるというタトエです。


 ★ キリスト教の本質
 ☆ としてではなく・つまりオシエや宗教としてではなく おのれの身と心とをあたかも超えた《非思考の庭》においてヒラメキないし観想のかたちで得られる人間論ないし社会観としての問題です。

 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――この場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体であり これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。

 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。


 この三位一体論もしくはそれの社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。
 もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。

 (さらにつづきます)