caguirofie

哲学いろいろ

上村静

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
 今回は 自分が読んでいない前に大胆にも書評を寄せるという越権行為を 平気でおこないました。(まぁ いつも 自由勝手な批判をかたっぱしからおこなっていますが)。


 ▼(上村) アダムをとおして罪が入り込み、「すべての者」が罪を犯した。だが、キリストの義をとおして「すべての人(間)」に義がもたらされる。ここでは「すべての人」の救済について語られているように見える。しかし、実際にはパウロはキリスト信者のみの救済について語る。
 ☆ これはですね。キリスト・イエスが その・どう言いますか タテマエとしてはあくまでユダイズムの内側で発言し行動しているというその形式にかかわっています。

 つまりは アダムらからの《原罪》をあがなったというのも ユダイズムの枠内でのことです。
 少なくとも 一たんその枠内での認識に落ち着いてから さらにはユダヤ人にとっては異邦人・つまり要するに世界の人びとに向けて開くという二段階になっていると捉えます。
 すなわち ここで《すべての人》と言っているのは まづユダヤ人のことであり 次の段階で世界中の人のことです。

 なぜなら 贖罪は 決して――タテマエとしては――異邦人のことは相手にしていないからです。もしユダヤ人の枠を超えて 人びとよ おまえたちの罪を 自分の命に代えてあがなってやったぞと言ったとしたら そんな恥知らずで高慢ちきな人間はいないとなります。

 あくまでイエスは 同胞のために行動しました。

 そのあと 世界に開かれます。それも パウロが勝手に開いたと見えるかも知れませんが やはりエレミヤ書のあたらしい契約説によれば おのづからユダヤ民族の枠組みが開かれて行くものと思います。

 《神は人びとの罪を覚えず 神を知れと言っておしえることもなくなる》のなら 言わば神を〔神みづからが〕揚棄したわけですから そのような自由な神は ごく自然に人びとによって・人びとにとって絶対普遍であると捉えられるようになる。からです。そのような神なら なるほど 信じられるなぁと思うはずです。(おまけに 《無い神》つまり 無神論という信仰であってもひとしく同じだとなるのですから)。


 ▼(上村) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 彼らは「あらゆる民族」(マコ三10)、「全世界」(ロマ一8)に福音を宣べ伝える(マコ一三27、マタ二八19、使一8等参照)。なぜなら、「すべての人」は罪人であるが、キリストをとおして義とされるからである。パウロの「宣教」とは、世界中の人を「義人」とするために、すべての人をユダヤ教キリスト派へと帰依させる改宗運動なのである。
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 ☆ ということは ユダヤという枠組みは 突き破らないと捉えたのでしょうね。上村氏は。ユダヤという枠組みを 全世界に覆いかぶせると受け留めたのでしょうね。すなわち:

 ▼(上村) 「ユダヤ人もギリシャ人もなく」と言いながら、パウロは徹頭徹尾ユダヤ人であり、ユダヤ主義者である。それゆえ、イスラエルの神以外の神々を奉じる異教徒は最初から偶像崇拝者であり、「罪人」である。


 ▼(上村) 奴隷についてパウロは、キリスト信者になったときに奴隷であったなら、たとえ自由人になることができるとしても奴隷のままでいるようにと諭している(Iコリ七21。田川 2007、該当箇所参照)。パウロは信者になった後に社会生活における状態の変化を望まない。
 ☆ これはですね。そのいまの奴隷の状態でいることが――社会制度であってその制度が容易には変革されがたいかぎりでは―― 特別にどうしてもダメだ ただちに抜け出しなさいというわけではないと言っているに過ぎないと思います。
 (終末に近づいたいまの時期だからという意味合いもあるとは思います。あっても それはどうでもよいと 今からは考えられます)。

 パウロの《女性蔑視》は ほんとうのようです。それは 当時の社会における・おもに低俗な人びとのあいだでの《常識》に従っているようです。なぜそうしたかは 分かりません。そのいま そこから――男女平等という問題から――出発しようとは思わなかったのでしょう。なぜか? 分かりません。身分制を改革し廃棄するウゴキとして 信仰のことを伝えたくなかったのでしょうか。
 よく受け取るなら 一人ひとりが信仰によって立つならば 社会のわるい制度についても改革をおこなって行くであろうと踏んでいたかも知れません。そういう 
 ▼ パウロの社会倫理の欠如
 ☆ です。


 次の考えは マチガイだと思います。
 ▼(上村) だが、そもそもキリスト派にとってキリストの死とは、律法規定であれ──仮にパウロの悪徳表に数えられている行為を「悪徳」と見なすとしても──倫理規定であれ、不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったか?
 ☆ そもそも神の愛・神によるすくい・神による信仰の授けは 神がおこなうものであって 人間はそれを受け容れるだけのことになります。

 つまり 《不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為ではなかったか?》というように予断をゆるさないのが 神の愛である。と言わなければならないからです。いつ・どのような状態において神はその人を受け容れるかは 分からないからです。

 《不完全な者を不完全なままで受け入れる神の救済行為》というのは 上村氏の憶測です。あるいはそうあって欲しいという願望です。
 神は 人間の願いや望みをかなえてくれるかも知れないし くれないかも知れません。分かりません。すべては《信仰――非思考の庭――》におけるウゴキとして現われます。勝手に決めるわけには行きません。というのが 信仰です。とパウロは 言っています。

 それはおそらく ダマスコ街道でのキリスト体験に要約されるものと思います。サウロ(当時のパウロの本名)よ サウロ なぜわたしを迫害するのか? というすでに去って行った状態にあるイエスの声を聞いたという体験です。自分からキリスト者になったわけではない。というのが 信仰だと思いますから。

 およそ上村氏は この信仰という大前提を抜きにして パウロ論を展開している。こう思われます。
 ▼ パウロの倫理的完全主義
 ☆ これは 信仰とは明らかに別です。(それゆえ そのことを論証する細かい論点での議論は 省くことにしました)。




 ▼ 「人間は独りでは生きられない。他者とのかかわりあいの中でしか生きられない相対的な存在である。」
 ▼ 「〈生きる〉とは〈いのち〉とは、関係の中で生かされてあるものだ。」
 ☆ この命題に対してなら 次のように考えます。対抗命題です。

 ○ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 1. 人間は 孤独である。しかも やがて孤独とは 孤独関係であると知る。

 2. 言いかえると 人間は 社会的な独立した存在である。孤独でないとは言えない。しかも同時に 社会的な関係存在である。孤独がいっさい他者と無関係だとは言えない。

 3. 独立性は 自由意志のそれである。二人や三人があつまってやっと意志が固まり その独立性が保証されるというものではない。

 4. 関係性は やはり自由意志の問題である。自由とは 他者との関係においてしかあり得ない。 他者との無関係・無関心の状態にあっては ほしいままに振る舞えるかも知れないが もう《自由》という主題は なくなっている。

 5. よって《人間は 互いに相対的な存在である》が 《他者とのかかわりあいの中でしか生きられない》というのは 言い過ぎである。片寄っている。もしそれを言うのなら 《他者とのかかわりあいの中で 意志自由という独立性においてしか生きられない》とも 同時に言っていなければならない。

 6. 人間にとって 関係性は絶対的なことであるが 独立性をも同時に捉えこれら両面をともに自覚して生きるとき 人にとっての共生が成ると思われる。

 7. この社会的な存在どうしの共生が成るとき そこには《いのち》が生きていると言えるかも知れない。
 
 8. いのちとは このような人びとの――思考を超えたところの・という意味での霊的な――共同性(ネットワーク)だと考えられる。

 9. 人間のあいだには しばしばこの《霊における共生性》をおれは把握したのだ そのおれについて来いという人が現われる。霊なるナゾとして受け容れるのは 信仰(非思考の庭)である。霊を掴んだ 操作できるぞと唱えるのは オシエを説く宗教である。
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 ☆ ゆえに 《いまはもう原罪も贖罪も言わなくともよい》と結論づけます。キリストも ほかの名の神もすべて背景へしりぞきます。(一人ひとりの信仰は 自由です)。