caguirofie

哲学いろいろ

《神》という言葉は 《方便》だ。

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

問い

《神》という言葉は 《方便》である。

 《神》という漢字  《かみ》という日本語・その発音 みな方便だ。

 《補助線》である。《神》を知る上で引いた補助線でしかない。

 補助線は 神本体ではない。

 
 タトエであり 仮りの表現であり シルシである。

 
 方便として用いているに過ぎない。




 これを問います。どうでしょう。

こたえ

真実が無である時、方便は詭弁ではない。
自我成立のための相補としての環境そのものが方便であり、
そこへの無の射影が物理であれば、方便を詭弁とし、自らに
真があるが如き自負こそ虚妄。
方便(=いい加減な認識に階層現象表面的定性化によって
派生する存在性)の罪(肉体的な自己チュー)を背負い、無の
射影(物理)の示す他我の途(全宇宙の自覚化)を果てしなく
ゆく事(博愛)のみが救い。
物理を厭い、肉体的惰性(自己顕示)に流される蒙昧は、真の
自我の目覚め以前に死す水子として供養されよ。

応答

 1.
 ★ 真実が無である時
 ☆ 《真実》は ひとの主観内容にかんして主観としての判断において《おのが心にさからっていない。または たとえ逆らっている部分があるとしても 全体としてこれこれの自己表現は おのれの意志によって よし・然りと判断したものである》ことを意味すると取ります。

 2.
 ところが
 ★ 無
 ☆ は 分かりません。どういう意味でおっしゃっているのか?

 《心にも無いこと》という場合 じつはあとで――自分が気づかなかっただけであって――心の中に確かにあったものだったと気づくことがあります。(むろん 文字通り《無い》場合もありますし そのほうが多いでしょう)。

 けれども 《有る・無い》が 哲学の問い求めにおいて つねにそのままで意味が明らかであるとは限りません。そうではないでしょうか。



 3.
 ★ 真実が無である時、方便は詭弁ではない。
 ☆ 通念として勝手に意味をさだめて解釈しつつ 読んで行きますが・そして議論を端折りますが

  ○ 方便は けっきょくつねに決して《詭弁》ではない。

 のと違いますか? 方便はそれを用いる表現者の意図やその方便じたいの目的内容がさだまっています。方便じたいに 《詭弁》にからむ要素はないのではないでしょうか。
 詭弁を弄するときそのために 話の中に方便を用いる場合は けっこうあります。



 4.
 ★ 自我成立
 ☆ この《自我》も 決して自明ではありません。わたしの見方では 文学の表現を別とすれば 《自我》はあり得ないと考えます。あるのは 《わたし・自己・自分など》だと。

 5.
 ★ 自我成立のための相補としての環境
 ☆ 自我をワタシと採るなら この命題は マチガイです。

 ひとが周りの環境の中に存在するとき そこには互いに関係性が 人間の生まれつきの条件として・自然本性として あると見ます。

 しかも わたしがわたしであるとき――そのようにおのが意志において自由だという理論上の境地にあるとき―― わたしは 身の周りの人びとや自然や社会の環境とのあいだに ただ理念や理論としてだけではなく 実際問題として大いに《関係性》はあります。つまり早い話が ひとは 社会にあって《共生》しています。

 このとき 

 ○ わたし(ここでは 自我)と環境とのあいだには 関係性があることはあっても 《相補性》は 基本的にありません。

 相補性というのは 互いに他(相手)がいないと 存続し得ないというものです。
 関係性は もともとひとが《環境》の中に存在しているという人間の条件として認識したものです。ですから 微妙でしょうが この関係性のさらにほかに(その上に階を重ねるごとく・屋上屋を架すがごとく)《環境がなければ人間は生きて行けない》という認識を積み重ねるものではないでしょう。
 (そう言うことはあったとしても それは その場その時の感慨を述べたものに過ぎないと見ていいでしょう)。


 6.
 ★ 自我成立のための相補としての環境そのものが方便であり、
 ☆ 環境は――あるいは 自分よりほかの人びとは―― すでに生まれて来ていて存在しています。ひとは その条件をあたえられたものとして受け取ります。そのとき その環境が――つまりは人どうしは互いが互いにとってこの環境でもありますが―― いちいち《方便》であるか無いかなどとは ひとは問いません。そうではないですか?


 7.
 ★ 〔* 方便である環境=〕そこへの無の射影が物理であれば、
 ☆ もういちいちツッコミは控えますと すなわちこのような前提に立てば:

 8.
 ★ 方便を詭弁とし、自らに真があるが如き自負こそ虚妄。
 ☆ 前半については (3)で反駁しました。

 この後半の自己表現に接して やっとひとつのことが分かりました。それは 先に触れるのですが どうも回答氏は ひとと対話をしないというエートスがあると受け取っていたこと その原因がここにあった。と思いました。

 すなわち
 ★ 自らに真があるが如き自負
 ☆ これが 人一倍つよいのだということ。やっと分かりました。(推測と納得とは違いますから)。

 言っときますが:

 ○ (自己表現とは) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 だれもみなおのが真実にもとづき 広く一般にも真実である内容を考えます。

 ですから みづからの考えは 共同主観(常識)に成る・それに反しないという――すなわちその意味で《真である》という――自負を持っています。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 この自負が
 ★ 虚妄
 ☆ でないか? と問われれば ふつうのまともな人は あぁ それはそうだ いっつも間違えたり どこか見落としがあったり おれは無知もいいとこだとこたえるでしょう。つまり 虚妄だと言われれば はいそうですとこたえます。

 ただし だからどうだとは ならないでしょうね。さらに精進をし研鑽をかさねて行きますとこたえるはずです。


 9.
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  方便(=いい加減な認識に階層現象表面的定性化によって
 派生する存在性)
 の罪(肉体的な自己チュー)を背負い、

 無の射影(物理)の示す他我の途(全宇宙の自覚化)を
 果てしなくゆく事(博愛)のみが救い。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ もうここからは《いい加減》にお応えしますが たとえば《博愛》を言うのなら・また《他我の途(全宇宙の自覚化)》を言うのなら――他我や《相補的》な環境には この質問者であるぶらじゅろんぬなる人間も入っているのですから―― ちょっとは対話を果たしたら どうなんです?

 いつまで
 ★ 自己チュー
 ☆ なる姿勢を保持するのですか?

 方便を詭弁とし ふつうの自負を虚妄と言い
 ★ 階層現象表面的定性化
 ☆ を・つまりは方便を・つまりは 神なら神としての方便をむしろ用いない。仮りの現象としての世の中のことが――世間虚仮というごとくにでしょうか――方便でしかないとしても この方便を用いようとしないのは 自己チューというよりは自己溺愛のようなものではないかい。


 10.
 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 物理を厭い、肉体的惰性(自己顕示)に流される蒙昧は、真の
 自我の目覚め以前に死す水子として供養されよ。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ☆ 人と人とのマジワリを厭い 観念的惰性(自らに真があるがごとき自負の城)に閉じこもるイディオット(*)は その無の道・死の脇道を引きかえし 火の子としてよみがえり わたしたちと対話をせよ。

  * idiot : " one's own "
http://www.etymonline.com/index.php?term=idiot&allowed_in_frame=0