イエスとパウロ
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
1. パウロが《文字はころし 霊は生かす》(コリント後書3:6)と言ったときそれは 《文字》をモーセの律法の規範性に当てて言ったと思いますが 一般に文字ないし言葉ないしその概念が 聖化され神と見なされることを注意事項としてふくむものと考えます。
2. つまりは イエスの直接の言葉であったとしても それは《第一次資料》であることに間違いないでしょうが 《神としての権威》にまで吊り上げるなら 《文字》としての・観念としての神になってしまうと捉えます。
つまりそうなのではなく 言葉による表現は すべて 神という答えをみちびく補助線であると。
3. イエスの場合は 少し強めに言うとすれば かたちにおいては ユダヤイズムの中から発言しているのでしょうし あるいは旧約聖書にもとづいてやはり発言していると思われます。
4. カナンの女が 娘を助けてくださいとイエスにたのんだとき
▼ (マタイ福音 15:21−28:カナンの女の信仰) 〜〜〜〜〜〜
24: イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ とあります。ただし このときにも その女の信仰がりっぱだと言って 願いに応じているのですが 一般に発言の基調は 旧約聖書の枠を守るようにして・しかも突拍子もなくあたらしく自身が神の独り子だとまで明らかにする恰好だと思われます。
5. たぶんその枠組みを――すでに実質的にはイエスによって開かれていたかのごとくに―― パウロは開いた。
〔イエスはあたらしく《愛》を言ったというとき 《わたしの欲するのは あわれみであって いけにえではない》というかたちでなら すでに旧約聖書でも言われている〕。
6. イエスが十字架にかかったのは 過ぎ越し祭のときです。神の怒り――それによれば誰もの長子が死んでしまうという――が及ばないように いけにえの羊の血をユダヤ人の家に塗っておいた。怒りが過ぎ越して行ってくれるようにと。
こういうコトに喩えられるような意味も いけにえとしてのイエスには あると考えられます。(ともかく 物語としては そのように成っています)。
7. この過ぎ越し祭が のちに復活祭と呼ばれるようになっているのは パウロがイエスの神の差し示しをユダヤの外にも開いたということと並行しているかと考えられます。
8. けれども イエスが出たのでなければ パウロが何を言ったとしても いささかの問題にもなりません。そういうかたちで イエスとパウロとは その言動において 一体です。
9. つまりこの見方によれば 資料が第一次か第二次かは 問題にはならないと考えます。言いかえると パウロが出なければ 別のパウロが現われたことでしょう。
10. ですから
◇ パウロの手紙という太陽を中心にして、福音書のイエスの言葉という惑星が回っているように、 / わたしには思えてなりません。
☆ とは成らない。イエスが ことのすべてですから 成り得ません。
11. 洗礼者ヨハネは 道をまっすぐにせよと語って イエスに先駆けた。このことの意義は けっこう大きいと見られます。わたし(ヨハネ)は その人(イエス)に仕えるのだとまで言って よい言い回しではないですが露払いとなった。
それとあたかも同じように ただし事後において 歴史におけるイエスの登場の意味をパウロは 思う存分に語った。
▼ (パウロ:ピりピ書 1:21) わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
12. ◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
信仰の核心部分は、
福音書によるものというよりも、
やっぱ、
パウロでしょう?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ それは 思考としての理解にかんしてのことです。信仰の説明としては パウロないしアウグスティヌスに大いに拠っています。
13. 共観福音書を読んでも イエスの言ったことについて ピンと来なかった。
ヨハネの福音を読んで ああ どうもそこには何かあるなと感じた。
それは パウロの書簡をひもとくまでは 内容もあいまいであった。
とは言うものの そのパウロを読んで何がしかが分かるようになったというのは アウグスティヌスを読んだからです。
そして そのような理解の問題とは別に――その勉強の過程で起きたのですが やはり基本的には別箇に―― 信仰のおとづれがあった。
――こういう実際を経験して来ています。
14. ■ パウロは直接イエスに会っていない
☆ むろんそうですが ダマスコへの道で 光に遭ったとき 《サウロよ サウロ なぜわたしを迫害するのか》という声を聞いたと言います。それは イエス言行録といった意味での福音書から《権威》を受け継ぐなどということとは まったく別なわけです。《文字はころし 霊は生かす》だと思います。
15. ですから 《権威》という概念で見ようとすることからして なじまない。と言うべきですかね。