#12
――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327
第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である
――§33――
人の眼や世間の眼がわたしの孤独宇宙の絶対の無力を知らしめ 有効な他者関係を築くとは ほとんど考えられない。有効な他者関係は 人から嫌われたとか世間から爪はじきにされたとか そういう意味での孤独感や自己の無力感に発するものではない。ましてやそれに帰結するものでもない。
実際の問題つまり現実に逆らって いま上のことを述べていると思う人がいるかも知れない。けれども そのような仲間はづれになることによる淋しさこそが人間の孤独宇宙を体験させてその自らの能力の限界を知らしめるのではない。あるいは そこでこそ神を見出さしめ 他者との有効な差異関係に入らしめるものでもない。もしそのように多神教論者が主張するとしても もしそのときには その主張が内容とするところは 《世間》を 神としているのではなく 集団として一体となった・あたかも一個の孤独宇宙としているのである。世間が 一個の孤独宇宙であると見ている。そのような大いなる繭であると。繰り返そう。その世間集団というひとかたまりが あたかも一個のおおきな内部宇宙を構成し そこで初めて大きな一個の自由意志が見出されるというかの如くである。個人には 自由意志がないというかのように。
言いかえると 一人ひとりの存在としては それぞれの孤独宇宙(自由意志)についてこれをもはや体験させないという集団幻想のもとにある。《無私であれ》というのは――あるいはもっと切実に 《世間の中では ばかになれ》というのは―― 自由意志を体験してはいけないようだなと気を遣って 《はい。わたしは 意見を言ったりしません。和を貴ぶ忠実な者です》ということになっている。もしことのとき 日本世間という一個の孤独宇宙の外部に対しては 他者関係が始まるのだとすれば それはそれとして それだけでも 喜ばしいことである。世界の 日本化(つまり大きく地球規模での人類全体にわたる一個の孤独宇宙化)への志向にしか道を見出せないと考えているとしたら 悲しいことである。信仰原点から出発する場合には その有神か無神かとしてのいづれかの一元論を 西欧などでは 実体主義の一神教に変えたという前科があるから 多神教論者が 信仰論じたいにさえ反撥し抵抗しようとすることには しばらく勢いが残るかも知れない。
だが いわゆる西欧の人びとのこしらえたキリスト教(それは 擬制の信仰である)の前科を指摘することと みづからの多神教なる信仰を 擬制でないと主張することとは 別である。後者の主張は キリスト教の有神論あるいはその反措定としての無神論といういづれも擬制の信仰が 実体主義の一神教だと批判するだけではなく みづからの擬制の信仰をも ちょうど多神教という形態の一神教としているにすぎない。わたしの孤独宇宙は 世間集団と一体となっており――それとしてのみ自由意志をはたらかせうる民族孤独なる単一性宇宙に属しており―― その信仰あるいは世界観は 多神教としてのみ説明しうるというかたちで もはやそれが実体視されるならば 同じく類型としては全くの一神教となっている。超越性や神のことに触れなくても 一向にかまわないが わたしの孤独宇宙・その自由意志の無力という限界が省みられないとすれば そこに他者関係はついぞ見出されないであろう。
――§34――
もしここで多神教論者が次のように反論するとすれば どうであろう。つまり 超越性にかかわる神 これのことを われわれは多神としているにすぎない。したがって 個人たるわたしの孤独宇宙は 見出されており そこから孤独関係=他者関係は成り立っているのだと。
すでに触れた反論だが これに対する再反論をもう少し進めておこう。
まづ 容易な答えとしては 《多神》をあくまで記号として 有効な信仰の神に代えて表現したまでだというのなら その議論・その反論は 妥当だと考えられる。この答えについての但し書きをも繰り返すなら 多神の《多》は 自然の事物(神奈備山・神木など)や死者神の存在にせよ その数を数えており その具体的な形態は すでに思考・認識を及ぼしたかたちにほかならない。ゆえに超越性にかかる信仰ではない ということであった。あるいは 別に言いかえるなら そのような多神を前にして 和を以って貴しと為すべく 人間の思考を及ぼしたり自分の意見を吐いたりするようなことがあってはならないというからには 信仰原点としては やはり間違った思考が持たれている。
非思考体験というときの非思考に似てはいるが むしろそのような非思考を強制するような思考が初めに横たわっている。いやいや 理屈ではない / あたかも信仰のごとくに・あるいは確かに信仰のごとくに 人びとのあいだでは作用しているのではないか と反論されても 実際には非思考ではなく 思考禁止・意見排除であるのだから 信仰との類似の部分は 擬制として成り立つのみである。言うとすれば あたかも強迫信仰の如くなっているとさえ考えられる。絶対の孤独・自由意志の絶対の無力は そこには見出され得ない。――憧憬・なつかしさ・やすらぎ・あるいは信念信条のたぐい これらの経験的な感覚や思想の部分については 別である。それは問題となっていない。《和》には そのような しなやかにして強烈なちからを われわれの中に呼び起こすひびきがある。
議論は もう少しつづきそうである。
もし人びとがおのおの非対象をめぐっての信仰体験を持ったあと この非対象を それぞれ山の神・海つ神・狐の神・鰐の神などなどと自由に仮りの代理表現としているにすぎず そのような信教・良心・表現の自由に立っているのだと再反論してきたときは どうであろう。これに対しては 擬制の信仰として成り立った部分が強い西欧キリスト教の文化の中からも 信教の自由が唱えられるようになったということが 一つ。つまり大雑把な言い方では 多神教という文化の中からは この自由の訴えが弱かったと考えられる。またこの自由の主張を容れた場合にも 右へならえの全体的な斉唱になりがちであり そのコーラスはそれほどの実質的な効果を持ちがたい。逆に言えば そのようなやはり国全体の孤独宇宙としての合唱によってこそ 有効でなくても 何らかの実効性を持ちうるというものである。
信仰の神をさらに代理表現して 仏なり八百万の神々なりと言っても自由ではないかという再反論にかんしては まづ繰り返し言って そのホトケやカミガミがあくまで代理表現のための記号であるなら 構わない。構わないのだが そうだとしても それならもはや一人ひとりがおのおの孤独宇宙にとってそのようなそれぞれの一個の神を抱いたというにすぎないことを知るべきである。まづ ボブもアンも いや 太郎も花子も やっと そこで存在として 一人ひとりになったということである。
単一性宇宙であるわたしの孤独にとって 信仰体験の神は――個々にその代理表現のことばが違ったとしても――すべておのおのにとって 一元論でしかないのである。個人であるしかないのである。もし仮りに多神教論者がこの一人ひとりの一元論(単一性宇宙なる孤独)は 代理表現上 キツネかゾウかクマかさまざまに《多神》であってよいし またそうあることを尊重すべきだと主張しているとするのなら そうだとするのなら それは ただその思考が未熟だというにすぎない。有神論か無神論かいづれか一元論でしかない信仰形態を原点に持った出発点のわたしは 互いに社会的に孤独関係にあり 互いの自由意志宇宙を侵すことができないと主張するのと同じことであるから。その萌芽として認められる。
もしそうでないとすれば 多神教は ものごとあるいは観念が多数において 思考しうる有対象となったかたちであり これを どこから見ても信仰ではないのに あたかも信仰になぞらえるにすぎない。神体験にかかわるようなことばや説明内容をもはやすべて経験思考の領域に降ろしてきて 思いこみや決め込みとしての無神思想と為している。無神思想のうちに観念上の神が捉えられ これを人がそれぞれ同一性なる要素として この同一性推理(または共同心理)によって他者関係が築かれると言い張ることになる。ところが すでに差異関係は奪われており――つまりは 超越性にかかわる差異関係に代えて 無神思想を立てそれの内に観念上の民族の神々をも共有するという仲間関係を持ってきており―― その上で 観念的に心理的に同一性要素(《和》なら《和》)を共有しつつ交換しあっていくということ このことが 人びとのあいだに 擬似的な関係性の原型をかたちづくっている。これにすぎない。すなわち やはり民族的な世間集団としての一個の大きな孤独宇宙の中においてである。有効ではない信仰としての西欧キリスト教の観念の神と この手形のように貨幣のように世間を流通する共同の観念(《和》なら《和》)とは その働きとして 同じようなものである。わたしの孤独宇宙を外から上から閉じようとしてはたらく擬似的な神であり 阿片のような薬である。孤独に対して なにがしかの癒やしが得られるというのであろう。孤独を 従って差異を 互いに 見させなくする。
以上(§32−§33)が 挿話である。
――§35――
途中で傍系の議論をさしはさんだけれど 以上の挿話(§32−§33)が 結論の行方としては 基本的な内容となるはづである。
(r−3) 〔超越性とは 体験の可能性の地平を 総体として 規定する働きをいう〕。ここで《地平》と呼んだのは 志向作用の対象となっている現象が その内部で差異を与えられることで同定されるような 可能的な現象の領域である。
(p.43)
ここで(r)系の引用文に戻る。大澤による《信仰》の定義にかかわっている。ここで言う《差異》は ボブならボブ一人の孤独宇宙の内部で認識される現象やものごとの区別のことである。この議論に異存はない。
(r−4) 《超越性》の反対語は 《内在性》である。選択 / 志向作用が規定された地平を前提にし その地平の内部にあるとき それを内在的と形容する。
(承前)
問題ないであろう。わたしの自由意志は わたしの孤独宇宙に内在する。
(r−5) その都度の志向作用の発動において 常に 地平が前提されるが そのような諸地平の内で 最も包括的な形態が 宇宙である。
(承前)
そのとおりであろう。ただし 地平が前提されるということは そのとき既に 超越性が体験されているということであり それによる信仰が原点をかたちづくっているとも言える。
(r−6) 確かに 通常の他者(* アン)も 自己(* ボブ)に所属する宇宙の外部に現われ それを規定するような働きをもつ。われわれは この働きを すでに 《私》の能動性を奪取する 他者の強力な実在性として 描き出しておいた。
(承前)
これは 超越性を介在させないで他者関係(愛)を捉えようとする場合にも 他者の現存じたいにおいて みづからの孤独宇宙は規定されると言おうとしている。他者関係が成立したと想定されるとき 事後的にはそのように見えるのだと考えられる。他者アンの現存が ボブの能動性(自由意志の選択)を奪取したから 二人の間に他者関係が成立したということではなく 《自由意志の限界と無力》どうしの関係が 差異=他者関係を見出しているのだと考えるべきである。能動性の奪取は 事後的にそういう一面として見出されるということであろう。
あるいは逆に《他者の強力な実在性が 〈わたし〉の能動性を奪取する》とすれば それでもよいかも知れない。そこには少なくとも 他者関係を築く個人あるいはそのわたしの孤独宇宙が初めに捉えられているのであり 社会全体が 能動性を奪取された人びとと比較的に能動性を自由に発揮しうる人びととに分かれていて その・対立関係ではなく和なる補完関係の中に自らを見出すことが 社会心理的の共同の強力な実在性となっている場合とは 別だと考えられるから。
(r−7) だがしかし 他者の逃れ行くものとしての本性 同一性の欠如は 他者に帰属する操作(* アンの自由意志による選択)を 《なにものか》としての実質をもつものとして つまり実効的な区別の操作として固定化することを不可能ならしめる。要するに その他者が何を欲求し 承認するかを確定することができないのだ。
(承前。p44)
直前に注釈したとおりである。すなわちここで大澤が定義しようとしている信仰の論議では 孤独宇宙から出発しており その限りで 個人がすでに前提されている。そのとき 《人が何を考えているのかわからない》とか《世の中は全く思うようにならない》とかという場合には 他者を 具体的に実在するアンならアンに見出しつづけるのではなく 抽象的な別種の他者へと進むという議論へつながる〔=(r−8)以下〕。そうでない場合――つまり個人から出発し得ない場合―― むしろ具体的に現存する花子や太郎がそれぞれ互いに あたかもこの他者でありつづける。すなわち 花子や太郎にとっては 互いが互いにとって神である。そうして社会現実には おおきく二種の神族に分かれる。・・・
(つづく→2008-04-08 - caguirofie080408)