caguirofie

哲学いろいろ

#4

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§12――

大澤の議論は 参考にしうる。またそこでわれわれとの異同を明らかにしていける。

( h )絶対の孤独とは 次のことを言う。存在者の存在の体験は ――いかに些細な体験であろうとも―― 体験の可能性の総体によって定義されるような宇宙を その体験にとっても地平として規定することを含んでいる。かかる宇宙は 一個の身体に帰属するものとして存在するしかない。あるいは むしろ厳密には 体験する者としての身体の単一性 すなわち身体の《同一性(アイデンティティ)》は 宇宙のそこへの所属によって確立されるのだ と言うべきかもしれない。宇宙の《単一性》と身体の《同一性》は かような意味において 双対的な規定である。宇宙の帰属者としてある限りでの身体の位格を われわれは 《私》と呼ぶ。宇宙の《単一性》は 比肩しえぬ絶対のものである。・・・
(p.11)

ここでの《身体の〈同一性〉》というのは 序章での与え合いの対象である同一性(つまり 正解知の共有)のことではなく またその体験のことでもなく 孤独もしくは独立存在のことである。
自らの体験宇宙の内部では 意志が自由独立であり 同一性を保って羽ばたくことができる。と同時にその限界(地平)にぶちあたるとすれば 孤独であり 一人ひとりにとって絶対の孤独である。具体的な表現行為にかかわっては 判断上の選択に関係することであり その点では 一人ひとりの自由意志の社会的に独立した単一性のことである。また 一人ひとりがそうであるとするのなら 互いにその独立性を侵すことはできない。ボブは他者アンの孤独の中へは入りえない。入りえたというように互いに影響関係が仮りに実現しているとするならば それは コミュニケーションが有効であって 相互の了解が成り立ったことだと考えられる。有効なコミュニケーションないし愛は 他者どうしの差異関係を保持することであるから やはり互いに他の孤独の中へは入りえない。要するに入りえたとするような影響関係があったとするときにも 孤独な自由意志としての独立した単一性は ボブにとってもアンにとっても 侵されることはないと考えられる。
引用文( h )のつづきとして

( hー1 )・・宇宙にとって 《他の宇宙》は ありえないからだ。つまり存在者〔* に対する志向〕の包括的な地平としての宇宙は 《他の宇宙》が積極的に現象するならば それを自身に下属させているはずであり 《他の》という規定を実質のないものと化してしまうからだ。・・・
(承前)

《存在する存在者――身体たる〈わたし〉――への志向としておこなわれるあらゆる体験》は 《比肩しえぬ絶対のものである宇宙の〈単一性〉をその地平としている》のならば この身体ないし《わたし》は ボブにあっても アンにあっても それぞれ最大の領野として現われている。その領域に 《他の宇宙》はありえず 他の自由意志も起こりえない。他の自由意志の起こりえない単一性宇宙の領域は その広がりと中身(自由意志)にかんして ボブにとってもアンにとっても それぞれが互いを原理的には侵しえず 互いに絶対の孤独にあり 従って この孤独関係において互いに同等であり平等であると想定されるはづである。この孤独関係が 《社会的に独立存在であると同時に社会的な関係存在である》ことである。
その孤独関係が《わたし》のことなのか それとも《わたし》が他者とコミュニケーション過程においてそのような孤独関係を結ぶものなのか。原型として関係しあっている愛とは どういうことか。しかも少なくとも 互いに差異を保持しつつであり そうでなくてはならないであろう。自由意志どうしの影響関係は 抑圧・支配関係にまで 現存性においてむしろ事実として広く見られると言うべきかも知れないが この自由意志の単一性宇宙を――原理的に言って―― 奪いあうことは できない。そのような差異=他者関係としてである。自らの体験なる存在の中へは 入って行けないであろうから。


( hー2 )・・・存在者の存在についての体験が 絶対の孤独としてしかありえないというのは そのような体験の度に 宇宙の《単一性》が 身体の《同一性》(* 独立存在=自由意志)に委託され 身体を孤独な体験者(* 《私》)として構成せざるをえないからである。
(承前)

従ってこのようにボブもアンも その《わたし》は社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると考えられるとき このとき 逆説的に言って 命題( b )が成り立つ。自由意志が――意志とか自由とか言っても―― 自らの宇宙の外部へは及び得ないからには 《愛には 究極的に解消できない原理的な不可能性が刻印されている》。すなわち実際問題としても いまの自由意志は 仮りに愛を志向したとしても 無力である。その絶対の孤独においてこそ 他者との差異関係が――独立した自由意志どうしの関係が と言ってもいい―― 愛としてのように かいまみられる。
ボブとアンとの(B)の場合のような任意のコミュニケーションにおいて 原型たる愛は つねに未実現である。自由意志は自らが他者の宇宙の中へは及び得ないゆえ 絶対の無力のもとにあることを知る。このことをそれぞれの自由意志が侵さないとすれば――自由意志の有力を頼んで無謀を犯そうとしないなら―― それによる表現関係は あたかも関係性の原型として 有効である。ボブとアンとは それぞれ絶対の孤独にあって 互いにその孤独関係を結ぶとき――すなわち 自由意志が無力のうちに有効であろうとするとき―― 二人はあたかも原型たる愛の過程を歩む。
大澤は 引用文( h / hー1 / hー2)を展開したあと 孤独のほうに焦点をあてつづけ 考察を進めている。(われわれは この孤独の成立・確認とともに同時に 孤独関係としての愛の問題へ進んだ)。外部なる他者との関係を導くのに――単純に孤独関係を結ぶのに―― 孤独宇宙にとっても死という外部性を取り上げ これを経由して導くのであり さらには 具体的な表現ないし知識の同一性(これは コードの問題だと言っている)を追究している。われわれはいまの時点ですでに この絶対の孤独(独立存在)が 同時にそれとしての《わたし》どうしの社会的な関係存在であることを帰結させてよいと考える。必然的な帰結であると考えてよいと思う。

――§13――

だからこう考えることができる。
《わたし》の独立存在性か関係存在性かいづれか一方に片寄って自らの宇宙体験を――むろん思考・想像など人間の知性によって―― 規定しようとするならば それは 差異関係を奪い合い自己の一定の判断規定たる同一性推理(つまり 正解・正答のこと)を与えあう擬制的な愛を体験するという事態にあるのだと。ボブやアンがこのような傾向に陥るのは・つまりその原因は きっかけとして大澤が次のように説明している。初めには《独立存在》のほうに傾いた場合である。

( k )だから 孤独な身体は 存在することの支配者のように現われる。存在者がそこにおいて場所をうる宇宙が その身体に所属する以上 存在者の存在が 身体の《自己性》から発するかのごとくであるからだ。
(p.12)

絶対の孤独たる《わたし》の独立存在が 単一性なる宇宙を体験しその領域いっぱいに意識の中で 自立=孤立して拡がるならば――そのように《身体の〈自己性〉》を知性によって認識しこれを一個の根拠となるべき観念とするならば―― かれは 《存在することの支配者のように現われる》。それゆえ ここからは もし他者に対するときには 《〈他者の世界に現われる自己〉が 〈他者を対象化しつつある自己の全体〉と同化しうるような同一性の交換たる体験》〔これは ( d )としての(A-1 / A-2 )の場合である〕が 持たれる。擬制の愛。《自己》なる観念を根拠として 差異=他者関係の正解を・つまり その模範型を・すなわち 擬似的な愛を 知性推理によって築き上げようというのである。
これは 絶対の孤独が とりもなおさず 絶対の差異を保持せざるを得ない孤独の関係として――すなわちそのような原型たる愛として―― 捉えられる〔と想定する〕その原理性をないがしろにし その場の現在性につき従った場合を言うはづである。すなわち 《支配者のように現われる〈自己〉》に根拠を求め コミュニケーションをその正解を求めつつ展開しようとすることは その現在性=現存性としては 《支配者のように現われる〈自己〉たちの権力関係たる事実性》につき従った場合と同じ事態のはづである。孤独なる《わたし》の独立存在の側面に片寄ったことは その場の現存性事実としての関係存在の側面に片寄ることと同じ事態だと考えられる。要するに あたかも《わたし》が悪い意味で天上天下唯我独尊のごとくあることは 世の中の成り行きにつき従うことであり また 権限を持つ者としては 勝手にほしいままにやることを――あたかも――現実としている。
(つづく→2008-04-01 - caguirofie080401)