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哲学いろいろ

#7

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§18――

論点は 次のように整理しうる。

(B−8) 死は 孤独宇宙に対して外部性であるか。
(B−9) 死なる外部性は 孤独を打ち破るか。
(B−10) 死によって孤独を打ち破られたとき 孤独は解除されるのか。
(B−11) 孤独が打ち破られ解除されたとするとき 他者が見出されたというべきか。あるいはその逆の事態と見るべきか。

論点の全体を通じて 解決はかんたんである。もし死を外部性と捉えるならば 《外部性》は一般に《差異》のことと解しうるから 他者関係におけるそれ(差異)のことをも意味しうる。ゆえに――そしてそのような緩い論理上のつながりにおいてのみ―― (B−8)から(B−11)の論点はすべて 大澤の立論のごとく肯定的に捉らえうるという見方である。
個々に見ていこう。
論点(B−8) 死は 自由意志主体としての身体の全的な否定であるから(m) 孤独体験の領域である宇宙に対する外部性である。
その限りで (B−9) 死は 孤独を打ち破る。
(B−10) 孤独を打ち破られたと生者が 死なる外部性について想像をひろげるとき その孤独は解除されたと言うべきか。――そのように想像するのは自由だが 《孤独が打ち破られた死の状態》と《死によって孤独が解除されたと想像する生の状態》とは まだ何のつながりもない。つながりがあるかどうかが わかるものではない。《死は 体験の完全な不可能性である》(m)のだから。
だとすれば (B−11) 孤独が打ち破られ解除されたとするなら 他者が見出されるかは
 その問い自体が成り立たない。孤独を打ち破る死は 《他者という場所を指定するところのもの》であるかどうか にわかには判定しがたい。時によっては死の想像が 他者の発見につながることがあるかも知れないというのみである。
外部性ということについては 孤独宇宙の地平でありその限界であるから――つまり 自由意志や知性の無力を知るところであるから―― 非対象・非思考の体験・つまり信仰にかかわっている。けれども 外部性の問題として《死》を取り上げる必要は必ずしもない。死とは確かに ボブの孤独宇宙が 意志自由の内部と意志無力の外部とによって成り立っていることを教えるものであるとは思われるが そのとき これら内部と外部とは むしろ両者を合わせて《わたし》の生に属している。その心は そこで《わたし》が絶対の無力である外部性が 非思考の信仰体験にかかわるということである。これはむしろ《超越性》として捉えられるということである。この超越性は 言うとすれば 死をも超えていると言ったほうがよい。(それは 体験不可能なのだから 何とも判断がつかないというほどの意味にすぎないが それでよいはづだ)。
われわれのほうも このように超越性などと表現し始めると それによってあたかも孤独が《解除》されるというような印象を与えてしまうかも知れない。ただこの超越性にかかわる信仰体験が 原理性にかかわってあらゆる関係性の原型たる愛を見出させたとするのならば 孤独は 少なくとも他者との孤独関係にあるということを知るものと思われるのである。単一性宇宙の絶対の孤独が それはボブにとって他者アンを目の前にして 想定じょう 何らかの関係であることを知るはづのものである。(愛の定義内容は この程度のものであり そうであったよいと考える。愛=すなわち関係 この定義でよいはづである)。そのとき 感覚としては 孤独の解除を味わったという人も 中には いるかも知れない。そのように――そしてそのような意味でのみ―― 愛の付随的な効能のうちに この孤独の解除が 含まれるというのであれば とくべつ問題はないであろう。
だから最後の論点(B−11)で 《逆の事態》はありうるかも知れない。すなわち 何らかの方法で或る時 《他者が見出されたなら 孤独が解除されたと感じる》ことはあると言っておくべきかも知れない。――だが 大澤の議論に対するものとしては こんな譲歩や但し書きは 無用であろう。愛の原理性を想定する単純な議論で済むと思われるところを 死なる外部性の迂回を通じて行なおうとしている。次にも これの批判をつづけよう。

――§19――

前節での結論を 一点だけさらに確認して進みたい。
いまの問題で――愛・コミュニケーションの問題である この問題で―― 《外部性》を《死》として考えることは 必要ないし まちがいである。他者関係を導くのに 死という外部性を介在させることは 次の理由で妥当ではない。
すなわち 死が《体験の完全な不可能性》であるとき その死としての外部性を体験することは出来ない相談なのだから そこで孤独が解除されたとか その解除が成ったゆえに他者が真正なものとして顕現するであるとかいうことにはならない。このとき 実際の死によってではなく 当然 死なる外部性の《想像》の問題としてなのだと反論して来ても その想像は 孤独宇宙のあくまでも内部性にとどまるというものである。思考や想像は 外部には及ばないのである。外部についての想像であっても それは 内部のものである。
あるいは 死によって孤独は打ち破られるという事態の抽象的な規定は 成り立つのかも知れない。そうだとしても この抽象的な規定である《孤独の打ち破られ》を たとえば解除として体験することは 不可能である。この解除として想像上の体験をすることは可能であるというならば それは 意志による思考・想像・判断の自由が効く領域としての内部宇宙での問題である。そこに限る。従って その想像としての解除体験から 他者という場所の指定を導くことは 妥当ではない。

――§20――

《死》の問題をめぐって もう少し。
いま命題( a )( b )のごとく 愛はあらゆる関係性の原型であり なおかつ そのものとしての実現は不可能であると見るとき その原理性は 人にとってその生の時間においてだけではなく 死をいま持ち出して来て想像上その死の時間をも捉えようとした場合 その場合にもあてはまると言えるかもしれない。前世とか来世とか言ったりする。外部性ないし超越性としての愛のことを 孤独内部で想像するだけのことだが いま上のような想定も 仮説として提出できるかも知れない。そしてもしこうであったとした場合にも 死なる外部性が 生の内部にあるわれわれにとってかかわるのは このいま一つの見方としての可能性においてのみである。超越性にかかわる愛ないし信仰を介してのみである。死が直接われわれに対して自らを主張するというのは 感情や心理としての影響を除けば ごく限られていると言うべきである。
具体例を交えて次のように考えられる。死者がいま・そこにいるからと言って 生者と同じように直ちに孤独が孤独関係となり そこに他者を見出すということにはならない。死者は 死体がそこにあるとしても 死なる外部性に移ってしまっているのだから 体験不可能である。生者であった時の姿を通じて 他者関係に入るというのであれば 死を介在させて捉える必要はない。死を介在させる必要はないのである。
他者は 差異関係という他者体験であり いわば体験不可能な体験としてある。死者体験は この他者体験にいくぶん似ているが 他者どうしが共に生者でなくては 話が始まらない。また 他者関係が 体験不可能な体験としてあるというのは それゆえ 原理性としての愛の想定や 超越性としての信仰体験の仮設をおこなっているのである。愛や信仰は その原理性や超越性ということにおいて 生死の超越をも想定したことになるとすれば――つまり 時間を超えた普遍性の想定に 実際なっているのだから―― 死なる外部性にもかかわっているであろうが そして従って死は 他者関係と間接的に薄くかかわっているであろうが この死なる外部性と他者なる差異関係とは 直接に何のつながりもない。
(つづく→2008-04-03 - caguirofie080403)