caguirofie

哲学いろいろ

#15

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第三章 性愛関係をどのように論じてはならないか

――§39――

§39−1 性愛関係は 愛の問題に従属する。愛は あらゆる関係性の原型である。
§39−2 性愛関係は たしかに間接的にせよ超越性の問題に・つまり信仰にかかわっていると思われる節がある。ひとつには 愛は実現不可能であるから。もう一つには 性愛関係が愛という一般関係の中で特殊にもっぱら人間自然(生理・知覚関係)にかかわる部分が大きいとするなら その自然は あたかも意志や知性に対する超越性にかかわるかたちとなって現われるから。
§39−3 性愛関係は 愛の問題に従属するが どのように従属しているかは分からない。むしろ従属していないかのように――そして超越性にかかわるかに思われるときには あたかも意志や知性を限界づけさえするかのように―― 一つの特殊領域をつくっている。
§39−4 このようにして性愛関係は 特定の二人の特殊な関係領域である。特殊なというのは 一般の人間関係での言葉による(もしくは 言葉に翻訳して説明する必要のある表現であってもその種の)表現とはあたかも別種であるように見えるからである。
§39−5 この性愛関係が愛の問題に従属しているそのありさまは分からないが 確かに従属するものだとすれば それは 一般の人間関係としての愛の問題から この特殊な性愛関係の領域へと入っていくそのあたかも境界にかんしては 規定しうると思われる。その境界における表現関係についてその要件を 規定しうるであろう。
§39−6 いまの仮定に立つならば むしろ規定すべきだと考えられる。すなわちたとえば 人類全体にわたってどの社会にも持たれている近親婚の禁止は 性愛関係に対する愛一般の関係の先行・優先を物語るように考えられるから。
§39−7 もう少し具体的にいくらか角度を変えて考えるに それは 関係一般から特殊関係へ入ろうとするとき そのための意思表示を必要とすると思われ この意思表示の何らかの形式を介在させるということであると考えられるのではないだろうか。つまりその意思表示の表現内容がどうであれ この《口説き》あるいは《互いの合意》という形式を介在させるということ このことによって愛の問題は 性愛関係を自らのもとに従属させていると言えるように思われる。コミュニケーションは 愛一般の関係の問題であるゆえ。
§39−8 性愛関係にかんして規定すべきことは 前項のほかにないはづだ。つまりその入り口での問題であって 性愛関係じたいについては 特に規範的なことがらは何もないと言ってよい。ただし特定の二人のあいだで別様にそれらを規定することは 妨げられないと言うべきかも知れないが 境界での表現関係(つまり 口説きにおける意思表示の形式の問題)を除けば 要するに性愛関係は 自由だと考えられる。

――§40――

ちなみに 愛の問題での原則は 次のように要約されうる。もしそれらが妥当であるならば 前節の性愛関係の考察内容に先行する。
§40−1 人は 自由意志(それは志向作用でもある)を持った社会的な独立存在(=孤独宇宙)であると同時に 自由意志の限界と無力(=絶対の孤独)どうしであるというその一人ひとりとしての社会的な関係存在である。そのような《わたし》が出発点である。
§40−2 《わたし》とは わたしならわたしと言って自称し 相手と共に 互いに対して言葉で表現を展開する存在者のことである。その限りで 表現の主体という。また理論的な分析においては 《わたし》は 初めに《〈わたし〉どうしの関係》であり 表現の主体関係あるいは表現関係(つまり コミュニケーション)が出発点でもあるだろう。出発点はすでに過程であり 関係過程である。
§40−3 《わたし》の独立存在性は 限界づけられている。限界づけられる仕方は 自由意志に対する超越性として想定される。その超越性が非対象としてのみ捉えられるというときの したがって非思考としての信仰体験 これとして現われると見る。(そのような信仰体験など何もなかったという人は その表明じたいが 超越性の問題であり 従って大きく信仰領域にかかわっていると考えられる。自分はかかわらないという仕方で 接していると見るべきであろう)。
§40−4 さらにこの信仰体験を事後的に説明しようとするなら 超越性に含まれる非対象が神と呼ばれ この神体験とも呼び変え得る信仰は 形態としては 有神論か無神論いづれか一つとして説明されるはづだ。信仰は《わたし》に絶対の孤独を見出させ ある意味でそれによって安定を得させるものである。信仰体験で(つまりもしくは 信仰体験の無で) 《絶対》というものに触れたように思うということであるなら 不安が消えたということなのでもあるだろう。自らがこの世に生まれてきたという偶有性が 全くその偶有性そのものとして核に認められ得たとするならば その確認が実質的な内容なのであろう。この信仰は 《わたし》の出発点に対して 原点と言うべき位置にある。
§40−5 《わたし》という出発点は それに先行する契機としてこの信仰原点を持ち これに後行して 他者との関係におけるコミュニケーション一般として過程される。神は 信仰の説明論議において――そして 時に神学として――持ち出されるほかは 出発点のわたしが踏み出しているときの一般のコミュニケーションにおいて用いられることはない。自由だが その必要がない。
§40−6 たしかに宣教の時代と呼ぶべき時期はあったと思われる。わづかに信教の自由と結社の自由とで――つまり広く一般に自由意志による表現の主体にとってその経験合理性の範囲内にある限りで 表現の自由によって―― 信仰の説明内容を一定の教義とし そこでは好んで神が論議されうるかも知れない。そして理論的に言っても 実際問題として見ても この宗教組織はもはや信仰の問題であるよりは 普通の一般的な社会活動の団体だと見なされるものと思われる。それが 基本だと思われる。《わたし》は 絶対の孤独として成り立っている。しかも 関係性の側面も それは 信仰原点の領域におさまる。もしくは 関係交通(コミュニケーション)の過程にも かかわっているとした場合でも それは あくまで 出発点における関係存在性としての潜在力を言っている。それを抜け出るならば
 信仰の領域ではなく 社会的な交通の領域に入る。宗教とは そういう集団としての領域と問題を扱っている。
§40−7 出発点たる《わたし》は あたかも同じ出発点を 他者の《わたし》にも推定して捉えることを為す。もしくは わざわざこの過程を経ることなく 何の意識も操作もなく その相手に言葉で語りかける。そこに 出発点が 現在過程として 成り立つ。そのような場の形成において これまでの原則内容は 確定されていくと考える。
§40−8 《わたし》は自由意志が限界づけられているが その限界づけられるありさまは わたしにとって確定していない。だから いま上の 原則内容の確定は 非思考体験を原点として認識や意識の非確定というかたちで 現象するものと思われる。(それはまた 愛の実現不可能性という原理内容のことであるだろう)。
§40−9 言いかえると 出発点の進行過程は 《任意のコミュニケーション》である。このように 原則内容の未確実な確定(つまりまたは 愛の未実現としての実現へ向けての過程)が旅だって行く。
§40−10 こういった想定内容が 共同のものと見なされ 社会的であることが確定されていくならば 他者関係が経験現実としても あたかも見出されたかに捉えられていく。§40−11 初めの絶対の孤独(=自由意志の無力)が保持されているなら 他者関係の実現にとって つまり愛の実現にとって 交通は 有効だと推定されるものと思われる。
§40−12 言いかえるなら 任意のコミュニケーションとして たとえばそこで自由意志によって――むしろその無力の自覚のゆえに―― 何らかの意思を形成しこれを言葉で表示すること あるいはむしろ その意思表示すること自体を一つの形式として コミュニケーションにおいて介在させること これが――任意ゆえの――或る意味で規範であり 原則事項の具体的な内容でありかつ要件となっていることだと考えられる。これが満たされるということであるならば 他者が 語りかけに応答し そうして互いに問いかけ また答えあっていくことができる。
§40−13 愛の原則は 《わたし》どうしが互いに意思表示の形式を介在させること これを実現していること によって代理される。そこに あらゆる関係性の原型たる愛が 原理性において 保持される。つまりそれは想定であるから 未実現のうちに あたかも原理性における実現を垣間見てのように 過程していくものと思われる。
§40−14 それは 意思表示としての表現内容に 正解を求めることによってではない。むしろそのような知性推理による正解の追求は もしそうとすれば信仰原点において吸収されている。必要のないものとして 包まれてある。
§40−15 最後にあらためて性愛関係のことに触れておこう。性愛関係は 意思表示の形式を介在させるという具体原則に従うものと思われる。と同時に この原則に従ったならば それをあたかも境界の入り口としてのように 特定の二人の特殊な関係領域に移行することになる。
§40−16 すなわち一般的なコミュニケーションにおける相互理解のための正解も もはや追求してもしなくても どちらでもよいというような二人のみの関係領域である。その意味では 或る種の形で超越性にかかわっているかに見える。信仰体験に似ているかにさえ考えられているかも知れない。
§40−17 そうしてさらにこのことを改めて愛があらゆる関係性の原型だという原理性のもとに捉え返すなら 想定上つぎのようになる。性愛関係は 愛一般の関係に対する特殊領域であるそのことによって むしろ愛の一般原則を核に位置づけ返すかに はたらく。
§40−18 それは 超越性の問題に遡るかに見える。信仰の原点にさえ遡るかに見える。特殊(性愛)と一般(愛)との往復・循環を重ねるとすれば そのことを通じて 何度も何度も 愛一般の関係領域に立ち戻ることによってである。
§40−19 このことが 性愛関係は愛の問題に従属するという命題をも認識させたとすれば(――あるいは そうであるかに感じさせたとすれば――) そこには 信仰原点が背後に潜むことが見て取れるように思われる。
§40−20 しかもさらにつけ加えることができる。《愛》は信仰にかんする神を翻訳して得られることばだとすれば 無神論という信仰形態の立ち場からは すべて否定される。つまりその無神は 愛の無であることになるから。無根拠であるとかあるいは単に無だとか空だとか言われたりするのであるが これはただし結局 一つの信仰形態である限りでは 出発点に対する背後の原点領域じたいは 認めているのである。つまり 一般と特殊とのコミュニケーションが 出発点であるということに揺らぎはない。これを認めつつ 無神論は その信仰原点を無と想定し表現しているのである。
§40−21 あとは 出発点である経験領域でのみ――もしくは 経験的なものごとを表わすことばでのみ――語れと言っているようである。むやみに私的な信仰や神を持ち出すなと。つまり 愛としても想定せず持ち出さず 特殊関係(性愛関係)を含めたコミュニケーションの関係一般という経験領域での議論に集中せよと主張している。
§40−22 これに対しては できればそれが望ましいと考える。ただし 時と場合によっては 超越性ないし信仰あるいは愛は 仮りの想定としてでも説明表現に用いたほうが 話は 早いと思われる。無神論者もけっきょく これら超越性の無や信仰の無・あるいは愛の無を想定し その原点から出発点に臨んでいるものと思われるからである。
(つづく→2008-04-11 - caguirofie080411)