caguirofie

哲学いろいろ

#14

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である

――§38――

(r−12) それ(* 究極の《他者》なる観念の神)は 他のあらゆる諸存在者(* つまり ボブやアンやそのほかの人びと)の可能的な現象が成立する場(* 地平)である宇宙を規定するものとして したがって 地平=宇宙に内在する他の存在者にとって必然であるような法則性に対する例外(* つまり超越の第三項)として 位置づけられることになるだろう。
(承前)

われわれの神が ボブ自身の孤独宇宙に内在する因果律のような法則性に対する例外として(あるいは 例外かどうかをさえ超越して)あるというのは むしろ初めの想定である。

(r−13) 《他者》(* 皆にとって共通の第三項)がこのような働きを(* つまり 内在する法則性への例外であることを)恒常化し 形象化したときに現われるのが《神》である。コミュニケーションが《超越性 / 内在性》の区別に基づいて遂行されているとき そのコミュニケーションを持続する態度を《信仰 faith 》と呼ぶことにしよう。
(承前)

やっと議論の最後のほうの部分にたどりついた。結論かどうかは みなさんに判断を願いたい。
この議論のように神を導くのは 順序が逆だという批判点はもはや繰り返さないとすれば この(r)系の一連の議論が 神を実体とする宗教思想を批判するためにむしろこのように分析し説明してきているとするのなら もしそうだとするのなら おおよそそのとおりだと考えられる。この点を明らかにしておこう。(われわれは きわめて大目に見ているのである)。
コミュニケーションは 超越性を経由して もはや内在性宇宙どうしの他者関係を成立させたとするとき ボブとアンとの間には任意の表現による交通あるいは単純な表現関係が 過程的に展開されている。信仰は 内在性宇宙をボブにもアンにもそれぞれ絶対の孤独として見出させ そこであとは身を引くものである。神は 一人ひとりそれぞれにおいて 信仰を幻想としてでも安定させ 安定させたあとは やはり身を引くものである。そういうはたらきとして想定しているにすぎない。《超越性 / 神 / そのはたらきの恒常化・形象化》という観念をコミュニケーションにおいて残しているというのは むしろそのような観念のために・その観念の体系としてこしらえた思想や信念である。経験的な倫理や思想である。人によっては その意味においても 信念や信条になるであろう。信仰としては 擬制であり その擬制を信仰であると言い張るのは 無効である。

(r−14) 要するに 《他者》すなわち神の投射とともに その《他者》=神への信仰が生まれるのである。われわれの仮説は だから こうだ。信仰は 性愛からの転回として 性愛を基礎にもつ飛躍として成立するのだということ。
(承前)

引用の中の《要するに》の第一文についてはもう議論し終えた。性愛(または性愛論)にかんしてはまだわれわれは議論していない。むしろそれを省略したまま 先に信仰論に入った。少しでも触れたところに基づくわれわれのほうの仮説としては 次のようである。
独立存在性(つまり 孤独宇宙であること そして自由意志の及ぶ範囲の有限性)という一面への片寄りから 愛は他者との関係性を奪われた擬制へ陥ると言っていた(第一章・特に§12)。すなわち 単純なことばのやり取りにおいて あたかもむしろ論理的な推理による正解を求め その正解をやりとりするという模範を作り上げるというのも ここで一つの擬制の例であった。(もう一つの例は――日本社会に見られると分析しているところのもので―― 知性推理をいっさい打ち捨てて むしろ人の存在じたいが 社会的な地位身分からの推理により 知性による正解であるとみなされるような擬制である。肩書きが ことばの交通において 同一性との距離が近いことを表わし その肩書きの権威が 正解をもたらすと見なされている。または その人じたいが正解の主体であるというかのように神であるといったかたちである。擬制である)。
そして単純に捉えて言ってこの擬制の形態が ここで《性愛》という概念を使って言われている。愛として翻訳されうる有効の神にかんしても それに対する信仰が観念推理の下に擬制の体系とされるならば その信仰は無効であるとなり 愛も擬制となる。差異=他者関係が無視されるのだから。観念の推理で済ますのだから。極端には 肩書きの権威を 差異の認容=他者関係=愛の成立に 代える。けれども 観念は 内部宇宙を出ないのだ。
わづかに論理知性によって推論を導いた場合には 愛の原型を 或る種の模範として 現在性のために 一定の形式に作ったという観念がある。仮りの像であるが それが仮りの像つまり偶像であることを承知しつづけていれば だいじょうぶと言う場合である。そしてこれらのことがむしろここでは《性愛》と言われている。もちろん普通の意味で まづ 性愛関係のことが言われているのだが それとのつながりは 次のようである。
すなわち 正解知=模範は 任意のコミュニケーションにおいて未実現のまま垣間見られるかも知れないというのではなく そう見るのではなく まさにボブとアンとの実際の性愛関係において またその成立をとにかく見て そうであれば 〔正解知=模範=第三項=神の愛が〕あたかも実現するという議論なのである。《信仰は 性愛からの転回として 性愛を基礎にもつ飛躍として成立する》とつながっていく。だがこれについて 省略に従ったままでは 終えられないであろう。

ねえボブ 確かに 私たちに理解しうる法則性に対する例外を 空虚のさらなる彼方に投射するとき その神への信仰が生まれるのかしら。もしそう言うのなら その神はまったく私たちの孤独宇宙の内部にある観念の神にほかならないわね。私たちが勝手に投射しているのですものね。
たしかに 内部宇宙における経験合理性に対する例外であるのならば それは 知性や自由意志の地平に限界を見ることだから 超越性にかかわっているように見えるのだけれど。でも その例外の領域というのは もともと 内部宇宙での経験事象のことであるかも知れないでしょう。つまり だって この場合 性愛関係という経験現象を持ち出して来ているのだし。
超越性にかかわったようでいて しかもその超越性の領域から 個人の内部宇宙の中へ降ろして来て取り込んでいるという作業だとしても その作業が 逆の動きであるかも知れないわね。というのは 宇宙内部から そこでの《例外》と規定して これを 超越性の領域へ投射したのでしょうから。そういう作業が はじめにあったかも知れないのだし。
経験法則性に対する例外を 超越性として取り上げている点では 信仰原点に似ているようね。知性の及ぶ事例の内外と 孤独宇宙の内外とは 別だとするなら ただ似ているだけのようね。信仰体験とは似ても似つかないわね。ただ それはそうとして――つまり そのような超越性が 擬制ではなく 有効な神にかんする信仰だとして―― それでも その信仰が 《性愛からの転回》であるというのは どういうことかしら。

(つづく→2008-04-10 - caguirofie080410)