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哲学いろいろ


▼(大澤)
「意味」の体系としての〈虚構〉は それ自身としては 常に〔☆ 虚構でな
い《リアルで生(なま)の世界》へと〕還元されうる不安定なものでしかない。
しかし それは[・・・]世界が秩序をもち 確たる現実性(リアリティー)を
帯びるためにはどうしても必要だ。


したがって 〈虚構〉としての世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差
を無化することなく 保持することを可能にするメカニズムがなくてはならな
いはずだ。

それは どのようにして与えられるのか? 論証を省略して 基本的な構図だ
けを述べておけば 〈虚構〉が生(なま)の世界との関係で生み出す欠如は 
(〈他者〉の)魂の還元できない欠如を独特な仕方で利用することによって 
保持されるのである。

〈虚構〉の世界とリアルな生(なま)の世界との間の隔差を保持するためには
前者を後者の上に吊るし上げておくことができるような 固定された「フック」
が必要になる。〈虚構〉は そのフックに引っかけられることによって 生
(なま)の現象の世界へと崩落しないですむわけだ。
そのフックをもたらすものこそ 魂をもつ〈他者〉なのである。厳密に言えば
〈他者〉そのものではなく 世界から否定的に退却していく〈他者〉を それ
自身 積極的な実在へと転換し そのことによって一個の超越的な実体に変容
させたとき それが フックとしての機能を果たすのだ。

超越的な実体へと変換した〈他者〉こそが (たとえば)神である。
( pp.250-251 )


一度 「意味」の体系を吊るし上げるフックとしての超越的な〈他者〉が措定
されれば 「魂」そのものも一種の「意味」として把握され そのことによっ
て たとえば直接に対面することのない多くの他者たちの「魂」に対する想像
力も生まれうる。

以上の筋道の概略を理解するためには 「死」に与えられた意味のことを考察
するのがよい。




▼ 〜〜〜〜
魂の存在を前提にするということは 容易に 超越的な〈他者〉(の魂)の
存在を想定することへと転換される。

ところで 超越化された〈他者〉を想定するということは 死においてもな
お持続するもの つまり殺されても生きつづけるものを想定していることに
なる。したがって 〈他者〉を超越的な実体へと転換するということは〈他
者〉の(象徴的な)殺害なのである。これを 言わば「一度目の殺し」と考
えてみよう。

そうすれば 「人間を二度殺しうる」ということは 一度目の殺しによって
も殺されえなかったもの――つまり超越的な〈他者〉――とも殺すことがで
きる という意味であると 理解することができるだろう。

だから 一人の人間を二度殺すということは 徹底した神殺しを意味してい
るのではないか。

だが 神を殺すことは 再び神を招き寄せてしまう。ただし今度は 神の否
定を表現する神 神の不可能性を表現する裏返しの神を。[・・・]

酒鬼薔薇聖斗にとっては 否定的な裏返しの神とは 言うまでもなく バモ
イドオキ神である。この神の名( バイオモドキ )が担う否定的な含意――
「魂(超越的な魂)のようでありながら 真の魂ではありえない」――は 
この神の否定的な性格に見合ったものである。そして 切り離された B 君
の首に託されていたのは バモイドオキ神の視線だったのだろう。

 ☆ 思考や想像の産物としての神であっても・つまり《モドキ》であって
  も イエス・キリストのような神――《殺害された神》(?)――であ
  りうるとして 話が進められています。

だが 二度目の殺しによって超越的な〈他者〉を排除してしまったことの代
償は大きい。というのも 〈他者〉の超越性こそが 「意味」の秩序を吊り
下げるフックの役割を果たしていたからだ。

超越化された〈他者〉を否定し去ることは 世界の有意味な現実性の総体と
しての崩壊を導くことになるだろう。とりわけ 世界の中での自己の「意味」
を つまり自己が何者として承認(肯定)されているかということについて
の信念(アイデンティティについての信念)を 失うことになるはずだ。

また 同時に ――超越化された〈他者〉が「魂」をも一種の「意味」とし
て把握する可能性を開いたことを考慮すれば―― そうした「意味」として
の「魂」の存在に関する想像力が支えを失い 極端な場合には 酒鬼薔薇
斗がまさに抱いたような 「魂」の存在をめぐる懐疑が導かれることになろ
う。






Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie