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哲学いろいろ

大澤真幸の三位一体論を見つけました

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9868096.html

次は まとまった議論です。コメントをどうぞ。

▲(大澤真幸:三位一体論) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1. キリスト教においては 神は 本源的に自己分裂の状態にある。

2. それは 父なる神(この世界全体の超越的な創造主)であり か
つ子なるキリスト(世界の片隅を遍歴する貧しく惨めな人間)でもある
からだ。

3. この分裂を西洋の王へと写像すると もちろん 政治的身体(父
なる神に対応)と自然的身体(子なるキリストに対応)の二重性が得ら
れる。

4. ところで この自己分裂的な神 内に父 / 子の二重性(あるいは
複数性)を孕んだ神は 異教の神々と変わらないのではないか という
疑問がわくだろう。

5. 諸々の現実的な存在者に 超自然的な精神性を読み込むことで 
それらを神として崇拝する。そんな宗教や呪術とキリスト教とはどう違
うというのか。

6. 異教の信仰の中では たとえばある樹木に あるいは山に ある
いは一部の人に 魔法の力が宿っている とされる。そうした超越的な
力が宿っている実体が 身近な物であることもあれば どこにあるとも
定め難い幻想性を帯びていることもあるだろうが 今は そうした違い
は問題ではない。ここで重要なことは こうした神々が 共同体と共同
体の間の分裂の表現になっている ということだ。

7. それぞれの共同体が それぞれに異なった存在者に超越的な力を
認め それぞれに崇拝しているからである。共同体と共同体の間の葛藤
が 神々の争いという形態をとるのである。



8. こうした異教の神とキリスト教の神とはほとんど同じに見える。
しかし もともと唯一神教ユダヤ教)は まさにこうした異教の神へ
の信仰を偶像崇拝と呼び これを克服しようとしてきたのではないのか。

9. それにもかかわらず キリスト教は 異教的な偶像崇拝へと退行
していることになるのではないのか。実際 キリスト教に対しては そ
のような批判は繰り返しなされてきたし キリスト教信仰の実態を見れ
ば そうした批判に一定の真実が含まれていることも認めねばなるまい。


10. だが 本来の原理に戻せば 「イエス・キリスト」は 異教的
偶像崇拝を根絶するアクロバティックな方法として解釈することがで
きるのである。どのような意味なのか 説明しよう。



11. まず 任意の神々を否定する 厳密に超越的で普遍的な唯一神
が措定される。その唯一神は 他のすべての神々を虚偽(偶像)として
斥ける唯一の真理として自らを示すことになる。

12. その唯一神は どの具象物(偶像)とも同一視できないので
原理的に抽象的で不可視である。これが 唯一神教である。しかし 異
教の神々にこのような唯一神教を対置しても 前者は消滅することはな
い。異教の神を崇める人は その唯一神を 自分たちの神とは異なる別
の神としか見ないだろう。

13. ここで キリスト教的なひねり 決定的なひねりが入れられる。

14.その純粋に超越的で抽象的な唯一神に 具象的な身体を与えるの
だ。ここで重要なことは その身体は ほんの少しでも理念化されてい
たり 精神化されていたり 幻想化されていたりしてはならない とい
う点である。

15. それは まったくシンプルな経験的身体 ごく日常的に存在し
ている身体 だれでも覚知できる百パーセントの生(なま)の人間でな
くてはならない。

16. あえて危険を恐れずに言いきってしまえば ある意味で ここ
に 偶像崇拝以上の偶像崇拝が出現する。厳密に超越的な唯一神に ま
ごうかたなき経験的な身体を与えたとき 異教的な神についての神話や
物語が 端的な事実に 言わば検証可能な経験的事実に転換する(もち
ろん それこそ およそ二千年前にパレスチナを遍歴したある男につい
ての事実である)。

17. 異教の神は 超越的とも内在的とも決定しかねるあいまいさを
特徴としている。それに並行して こうした神についての神話は 歴史
的な事実とも幻想的な虚構とも決定できないあいまいさをもつ。

18. これに対して 身体を与えられた唯一神(キリスト)において
は 超越性へと向かうベクトルもまた内在性へと向かうベクトルも つ
まり両方のベクトルがともに極限的に強められた上で 共存している
(これが 「まったき神にしてまったき人である」ということの意味だ)。

19. このとき 超越的な神についての物語は ほかの出来事と並ぶ
経験的な事実になる。



20. 単純な唯一神教を拒絶した異教徒も このような神であれば 
受け入れるだろう。なぜなら この神は 異教の神の性質を否定せず 
むしろ(強化・純化した上で)取り込んでいるのだから。



21. その上で 最後の一押しが待っている。この神が つまり身体
を与えられているこの唯一神が殺されるのである。

22. いや厳密には 次のように言うべきである。この神は具象的な
身体をもつまったき人間であることを自ら示すために 死ななくてはな
らないのだ と。まさに死んでしまうという事実が この神がほんとう
に人間でもあったということ 生のむき出しのアクチュアルな身体であ
ったということを 誰も否定できないかたちで示すことになる。



23. すると結局 どうなるのか? 何が残るのか? 最後に 信者
たちの普遍的な共同体のみが残るのだ。

24. かつて それぞれに実体化されている神を崇める 相互に排他
的な共同体があった。しかし 今や 実体化・身体化された神が消去さ
れ 信者たちの普遍的な共同体のみが残る。

25. 「普遍的な」というのは 右記のように ――少なくとも原理
的には――唯一神が身体化されて まるでアクチュアルな異教の神のよ
うな姿をとったとき 異教徒たちも この唯一神の信仰の共同性の中に
包摂されているからである。

26. この状況をわれわれは 次のように言うことができるはずだ。
神が消滅したというより 神は今や この信者の普遍的な共同性になっ
たのだ と。

27. 聖霊とは この普遍的な団体=法人のようなものだ と言って
よい。

28. 以上の論理を通じて 父なる神=子なるキリスト=聖霊 とい
う等式が成り立つ。これが三位一体論である。
(『〈世界史〉の哲学 近世編』2017 § 14.3 PP.318-320)
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☆ 29. 父=子=聖霊なる三つのペルソナの一体は――超越神だと
いうのに―― 信徒たちの共同性といった経験事象になったというのだ
ろうか?

30. 普遍神〔のもとにある人びと〕が なぜ信徒であるか否かの物
指しで測られなければならないか?

31. つまり キリスト・イエスは 神という神を――オシヘとして
のあらゆる神を―― まったき形で揚棄したのではないのか?