caguirofie

哲学いろいろ

#18

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第三章 性愛関係をどのように論じてはならないか

――§49――

なるほど かれ(パウロ)もあの光の事件のときサウロからパウロへと改名したあとにそうしたわけだが(つまり宣教したわけだが) その改名も 《キリストないし神を信じた》ゆえのことであるだろう。つまり超越性にかかわる非思考体験は――そして他者じしんの宇宙の全体そのものに対する体験も―― ただその人の超越性にかかわる領域を含めた主観宇宙の内部の出来事ではある。逆に言えば すでに神体験はあったのだから・しかもこの神は非対象であるのだから 神は何であるかを 知る必要はないし 知り得ないのである。(知ることが出来るか否か これを知り得ないのである)。わづかにこの信仰を原点として 出発点の《わたし》をうんうんと押して歩む過程があるのみである。出発点の過程で 信仰原点は身を引いている。自由意志の無力を知ったという内容でしかないのだから。
この点 大澤の立論はどうであろうか。

(v−2) 信仰においてサラとアブラハムは 《直面するやいなや退避していくような いかなる同一性にも繋ぎ止められていない絶対の差異》としてではなく 包括的な同一性の内に配分された相対的な差異として 互いを積極的に同定することができるわけだ。・・・
(p.47)

直面する他者どうしは アンにせよボブにせよ 自らの宇宙体験がどうしようもないほど絶対の孤独としてあり それは意志自由どうしの互いに対する無力なる差異関係としてある。それが出発点の《わたし》である。孤独宇宙の外部・超越性にかんすることによっても説明をつけ加えるときには それは 非思考体験なる信仰原点である。――だからここに 《包括的な同一性》があるのかどうか それを何をもってどう規定しようというのか よく飲み込めない。いま分かっていることは 神を《他者 / 高次の同一性》なる観念とするのならば それは信仰ではありえず どこまでも 有対象・有思考の体験である。《わたし》の孤独宇宙も まだまったく 自覚されていないということである。自覚されてこそ つまりその自覚と同時に 信仰体験が始まる。他者どうしの関係に 互いにとって包括的であるような《同一性》を認識しえたとするのなら これは 差異関係ではありえないし 互いはつながっていることになる。その意味で・その日常的な経験現象としての意味でのみ 愛が実現したことになる。

――§50――

大澤の議論では 孤独が 一面で保存されつつ 他面で解除されるということにこだわり この解除の側面では 他者関係が相対的な差異関係になり そこには 差異の究極的に抽象化したむしろ高次の同一性 これが共有されると説き進みたいようである。《高次の包括的な同一性》という大いなる観念によって――つまりちなみにこれは しばしば《以和為貴》なる象徴と同類である そのような観念によって―― 《わたし》の孤独が《解除》されたのだと主張するのならば それは すでに元から原理性の次元で潜在的に《解除》されていたと考えるべきであろう。一切衆生に仏性があると言いたいわけである。
アンもボブも 認識・意識・自覚で 《同一性》を共有し 《互いを積極的に同定することができる》のならば――それは 単なる観念の遊戯に思われるけれども その論理だけについていくとするならば―― もはや《高次の包括的な同一性》などという観念を持ち出す必要はなく 孤独宇宙はすでにその孤独の解除をも含んでいたと主張すればよい。言いかえると わたしの自由意志は 自由に他者の宇宙内部に及びうる力があると主張したことになる。目覚めたブッダどうしが 肝胆相照らすというわけである。
ならば 知識をめぐる同一性(または 同一性をめぐる知識)にかかわる《コード》の問題も 取り立てて扱う必要はないのであり われわれ人間にとって関係性の原型たる愛は 解除された(解除可能な)孤独という一側面において 部分的にせよ 実現可能だということになる。ここに到れば 話は全く別のものとなり 再び初めから説き起こさなければならないであろう。
愛は原理的な想定として 実現不可能だと言っていたのだから。だがこの想定がくつがえされるのならば 初めから話を始めるというよりも もはや人類にとってコミュニケーションにかんする問題は 何もないという別種の議論となる。つまりコミュニケーションをめぐる問題など何もないと 少なくともそう言える部分領域がつねにあるということになる。そのときには 孤独宇宙にとっての超越性などという信仰の問題は 不要であり――少なくとも 超越性のどこか一部分においては すでに風穴が開けられている―― 神も無神も愛も すべては幻想であり まやかしなのだという立ち場を表明しているということである。
もしそうであるならば そのほうが楽である。そのような経験科学と思想ないし共同の観念でやっていけるのであれば それに越したことはない。わたしも 宗旨替えするであろう。ただし そのように主張する立ち場は これまでの議論内容からいけば もう一つ別の顔をのぞかせており それは結局のところ信仰原点すら性愛関係に条件づけられるというのだから 煮つめていえば 性愛関係万々歳という思想なのである。人類の現在は このような事態なのであろうか。そのような主張内容を持った精神分析の一派として成り立っているのであろうか。

――§51――

われわれの立ち場は もしそうとすれば性愛関係が超越性にかかわるかに見えるとき それゆえ性愛関係を通して おのおの自らの孤独宇宙の内部でさまざまに自由に信仰原点のことを捉えようとするれば そのとき みづからの内部からその地平の境界にたどりつき 確かに超越体験に出会うかもしれない。自らの内に 仏性を見るかも知れない。
真理は 向こうからやって来るものだと思うが もしそのように性愛関係にからめて信仰の論議をするのも自由だとすれば その意味で 性愛関係について無規定だという恰好なのである。要するに規定すべき事項は ボブとアンとの任意のコミュニケーション過程 このことに行きつくのみであり 行き着いていなければならないと考える。このようなふつうの孤独関係としての単純な他者関係 これを主張するような声は かき消されてしまうだろうか。
このような世界事情に対して 《資本主義》は 大きく影響力を発揮しているか または 立ちはだかっているかだと思われる。この点について全く触れ得ないで来たのだが これまで検討してきた世界事情のほうで 問題が整理され 基本的に大方の進むべき方向が同意のうちに共有されるのならば 資本主義の力も 少しは変わるのではあるまいか。このような放言でこの議論を閉じることとしたい。
(おわり)