caguirofie

哲学いろいろ

#17

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第三章 性愛関係をどのように論じてはならないか

――§45――

まづこのアブラハムの物語については 事実誤認が見られる。大澤によれば

( u ) ・・・アブラハムは 改名と同時に 《割礼》すべきことを神から命じられた。・・・このとき 神への信仰は十全なものとして成立する。
(p.46)

けれども 

アブラムは 主(ヤハウェー)を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15:6)

のは 神から

あなたは もはやアブラムではなく アブラハムと名告りなさい。
(創世記17:5)

と命じられる以前のことである。創世記の第十五章と第十七章とである。《改名と同時に》というのは あいまいである。
これは 引用文( u )での文章が 《このとき 神への信仰は 〈十全なものとして〉成立する》というように《十全なものとして》に力点を置いているとするなら 事実誤認ではない。以前に(つまり創世記・第十五章第六節に)既に成立した《神への信仰》が この改名や割礼のとき(つまり第十七章第五節)に至って《十全なものとして成立する》のだと解釈する場合である。この解釈は 自由であるゆえ一度受け留めなければならないのだが それならそれで さらにその後の一事件にも触れて 首尾一貫させなければならない。その後にもアブラハムの信仰をめぐる大事な出来事があるのだから その信仰問題と性愛関係とが一体どのように絡み合いの関係を持っているのか これを説明しなければいけない。
それはアブラハムが 独り子イサクの命を神にささげようとしたときのことである(創世記・第二十二章)。いけにえとしてわが子イサクを捧げよという神の声に聞き従った。これも そうとすれば 信仰の・十全なものとしての成立ないし確立である。大澤の引用文( u )による論理では 次のような解釈を内容としている。すなわち 以前から始まっていた信仰が 改名と割礼のときに 十全なものとして成立したからこそ イサクを捧げよという神の声にも 信仰をもって 従うことが出来たのだ という意味あいである。けれども これでは どうして《改名と割礼のとき》に 信仰成立にかんする力点が置かれているのか その理由が分からない。以前のとき・すなわち アブラムと名のっていたとき

跡を継ぐ者が生まれてくる。

という神のことばを聞きこれを信じ 

主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15:1−6)

ときに 力点を置いても一向に構わないはづだ。時間的に前のほうが 理屈に合うはづだ。なんなら 故郷を去って行きなさいという神のことばを聞きこれに従って旅立ったときを 信仰の成立とすべきではなかろうか。
いけにえに捧げられようとしたのは 予言されていた跡継ぎであるイサクであるのだから 改名や割礼の時より以前の信仰成立説に 分がある。ただし いまは 問題の焦点は 信仰と性愛との複雑な絡み合い如何にある。それは 従ってむしろ 跡継ぎイサクの誕生をめぐるアブラハムとそして妻サラとの性愛関係にあるという説であるらしい。

――§46――

大澤が説くには

(v) つまり 信仰が成立するためには 第一に アブラハムと妻サラが互いの身体を性愛関係において見出さなくてはならず・・・
(p.46)

ということであるらしい。原理性の次元での愛は いまどうなっているのか これをひとまづ措いておかねばらない。そうしてこの議論をしっかりと把握しなければならない。九十歳まで不妊の女だった妻サラにイサクが誕生したそのことは 性愛関係の問題である。だから言ってみれば 《信仰は 性愛からの転回として 性愛を基礎にもつ飛躍として成立するのだ》という大澤の仮説である。

  • とても 滑稽であり こんな議論を わたしは まともに 受けて 最後まで続けなければならないのだろうか。たぶん そうすべきである。(20080412記)

けれども イサクが生まれたのは アブラハムの改名と割礼の出来事に対してさえもその後(つまり一年後)ではあるのだ。逆の順序で 信仰の転回として性愛が成立した(!!??)ことになってしまう。

――§47――

すでに矛盾は明らかで深刻だと思うが 仮設は次のように展開される。

(v−1) 信仰が成立するためには 第一に アブラハムとサラが互いの身体を性愛的な関係において見出さなくてはならず そしてこれに媒介されるようにして 第二に 両者の身体を〔割礼という〕負性によって――つまり欠如したものとして――意味づけるような 高次の同一性が認定されなくてはならない。信仰を支えるのは この高次の同一性(* つまり 《究極の他者》なる神 というのであろう)である。
(p.46)

神の命じるところによれば 

男子はすべて 割礼を受ける。
(創世記17:10)

のだが そして

それによって わたし(神)の契約はあなた(アブラハム)の体に記されて永遠の契約となる。
(創世記17:13)

と書かれているのだが この割礼は 《信仰が成立するため》の条件なのだろうか。つまりそれ(割礼)は 性愛関係の成立を第一の条件とするときの第二の条件として 《身体の欠如なる・そして 自らの孤独宇宙の外部なる高次の同一性が認定される》ということを内容とするそうだが 果たして一体これは何を言おうとしているのだろうか。
われわれの批判はすでに明らかである。経験知性による思考体験として《高次の同一性 / 究極の他者なる神 / 純粋欠如》が認定されることは それはそれとして(つまり 知性による一つの事件として) ありうることである。またそれをどうしても 《信仰》と呼びたいのであれば そうさせるしかない。けれども 超越性の非思考体験は それとは全く別である。有無を選び得ず 高次か低次か 同一性か否か それぞれいづれとも認識し得ない非対象なのであって それゆえに われわれはそこに 信仰を捉えている。あるいは 無信仰という信仰を認定している。その非対象の一代理表現として 神ということばがある。だから このような定義をめぐる事情を混同することは出来ない。
だいいち 高次の同一性が――知性とその思考によって――認定されたのなら 身体の欠如あるいは宇宙の外部ではなくなる。それは 内部ではないか。つまりは言いかえるなら そのような高次の同一性は 単なる身体宇宙の内部なる観念である。非思考ではなく まるまる思考である。心の目で見たのだといえば それは 非対象ではなく 有対象なのである。人間が自分で作った神であるに過ぎない。概念も 偶像である。この観念は 哲学・思想あるいはそれとしての信念ではあるだろうが げんみつに言って 信仰体験ではありえない。

――§48――

《信仰と性愛との複雑な絡み合い》について例示しつつ 信仰の仮説が展開されているわけだが いま ちなみに新約聖書のローマ書でのパウロによる次の議論は どうであろうか。

(w) ・・・

アブラハムは神を信じた。それが 彼の義と認められた。

とあります。・・・アブラハムは 割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして 割礼の印を受けたのです。こうして彼は 割礼のないままに信じるすべての人の父となり 彼らも義と認められました。更にまた 彼は割礼を受けた者の父 すなわち 単に割礼を受けているだけでなく わたしたちの父アブラハムが割礼の前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
(ローマ書4:1−12)

ここで《義》とは 愛のことです。未実現の過程にして有効だと見なされる愛のことです。などと議論を継ぎたくなる。《神を信じた》という非思考体験 それがアブラハムの義と認められたのです。つまりアブラハムが自分の孤独宇宙じたいにかんして――妻サラやあるいは他の人びとを前にして その関係存在性とともに――自らの社会的な独立存在性を自覚し それを《わたし》なる出発点としたのであり それに過ぎないし それで十全である。すべては自らの宇宙内部の主観である。その出発点にとって先行するわづかな領域が 信仰という原点として存在するようだ / そのようにも自覚しているはづだということが 主張されている。パウロは このような信仰としての原点および《わたし》なる出発点が 普遍的であると捉えたなら これを宣教したのであるにちがいない。

(つづく→2008-04-13 - caguirofie080413)