caguirofie

哲学いろいろ

#16

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第三章 性愛関係をどのように論じてはならないか

――§41――

ちなみにここで 第二論文《貨幣の可能性・愛の不可能性》から 愛にかんする大澤の次の定義を引用しておこう。

(s) 《他者》の他者性を喪失することなく全的に体験しようとするときに構成される関係の様態が 愛である。
(p.66)

けっきょく 絶対の孤独=自由意志の絶対の無力のことを言おうとしている。それにもとづく他者関係としてである。つまりわたしの内部では孤独宇宙の意志が 自由であるのだが そのように自由である《わたし》でも 相手の《わたし》に対しては 自由(自由自在)ではありえない。さもなければ 自分の《わたし宇宙》が自由でなくなる。よって 他者どうしとして 差異関係を保持している。(なお 自由意志にかかわって差異関係にあるということは そのこと自体にかんして 互いに人は平等である)。――命題(s)は 原型たる愛の未実現の過程として捉えて 全く首肯できる。これにつづく一連の文章にも触れておこう。

(s−1) 自己が 自らが選択・設定した特定の(外的な)目的との相関で他者に関与するときには その目的の実現に促進的な効果を有する限りでの他者の体験や行為の特殊な局面が 自己によって対象化される。自己に帰属する宇宙の内部での道具的な有用性において 他者は主題化されるのである。その場合 自己と拮抗しうる固有の宇宙=体験の帰属点としての他者は 背景化されてしまう。ところが 愛においては 自己は 《他者》(の身体)の存在そのものを享受するのであって 《他者》の存在=宇宙に外在するいかなる目的ももてない。愛は 自己が自らの選択を 《他者》の体験(宇宙)に つまり《他者》の快楽の体験(宇宙)に つまり《他者》の快楽(肯定的価値を担う体験)に方向づけることによって成り立つ関係だからだ。
(p.66)

最後の一文を除いて 命題(s)につづく美しい文章である。ボブとアンとの有効なコミュニケーションのありさまは さぞやこのようなものであるにほかならないであろう。
ただし最後の一文は これだけでは あいまいである。かんたんに批判しようと思えば 《愛は 任意のコミュニケーションである》のだから わざわざ《自らの選択を 〈他者〉の体験(宇宙)ないし快楽に方向づける》必要は まづ ない。気配りの問題つまり その選択にかかわる志向作用の程度問題におさまるものだとすれば もはやこだわらない。次節であらためて取り上げる。

――§42――

され 性愛は 大澤によって実は 第4節《性愛》などですでに触れられていたのだが われわれはそれを省略してきた。そこでは 《他者性が性的差異である》とか したがってのように《他者関係は性愛関係に見出される / それは たとえば〈愛撫〉によって結ばれた関係だ》とか 議論している。わたくしには理解しにくいので 今も分かりませんと言うほかないのだが 次のことについては はっきりしている。命題(s)を提示しながら かつ それを引用文(s−1)で説明しつつ わづかにその最後の一文でいささか曖昧なことを論じているということである。引用文(s−1)の最後の一文は 上のようなこれまで省略してきた部分の文脈に置くと いささか問題である。次の文章のひとまとまりは この引用文(s−1)の最後の一文〔の疑わしきところ〕と同じ内容である。

(t) だから 他者が真正なものとして顕現しているような境位においては 自身の選択は ただこの他者の体験へと方向づけられており 他者の宇宙の内部でのみ意味あるものとして定位されるに至るはずだ。このような関係 すなわち 自己の選択が専ら他者の体験へと方向づけられているような関係 自己の選択が他者の喜び 他者の楽しみ等々との連関においてのみ 有意味であるような関係 それは (他者への)愛 love という関係の定義そのものである。
あるいは 他者がその還元不可能な差異の故に 性的関係の内に場所をもつのだとすれば このような関係を むしろ 端的に《性愛 eros 》と呼ぶべきかもしれない。
(p.28)

これは 引用文(s−1)の最後の一文を除いた部分と 全く違っている。つまり最後の一文が含み得た変な趣旨と同じである。一見同じように美しいと見えるかも知れないが 大違いである。要は 《他者の喜び 悲しみ等々》が他者の孤独宇宙の内部に属する出来事であって 少なくともそのことに対してわれわれの自由意志は何の力もないと まづ言わなければならないし 知らなければならないことである。あるいはまた 愛するとは 自分を失くすことではないと知らなければならない。言いかえるなら 《自らの選択が他者の体験との関連において 有意味であろうが無意味であろうが 愛は関係性の原型として 未実現のうちに 過程されている》と言わなければいけないし そのように知った自らの孤独宇宙に立たなければいけない。
《愛は 自己が自らの選択を 〈他者〉の体験(宇宙)に つまり〈他者〉の快楽(肯定的価値を担う体験)に方向づけることによって成り立つ関係だ》〔(s−1)最後の一文〕というのと同じように この引用文(t)でも 《自己の選択が専ら他者の体験へと方向づけられているような関係うんぬん》と捉えられている。このような・自らの自由意志による志向作用が 他者の宇宙内部の体験とつながっているというような《愛》は われわれが原理性において想定してきた・実現不可能にとどまる愛とは 別である。つまりそれは 日常生活に見られる気配りの問題であるとかごく普通の経験的な愛情などであるとか そのような人間の努力の問題と混同していると言わざるを得ない。
言いかえるなら 《自らの選択や志向作用にかんする意味の有無・あるいは方向づけの如何にかかわらず 愛の原型は あらゆる関係性に対して 想定しうる》 これがわれわれの大前提である。それは具体的な 《任意のコミュニケーション》に見出されるとも主張している。従っていまの日常経験の愛情などの問題は この大前提の上に立って 喜び・悲しみ あるいは好き嫌いなどなどの情感として捉えなければいけない。つまりそれらは 確かにそのようにして 具体的に共感しあっているものである。そして かなしいかな 移ろい行くものである。
性愛関係も あたかもこのように愛の関係一般を大前提にしたその中で 特定の二人が一般関係とともに特殊な関係をも結ぶことである。言いかえると その特殊な関係領域に入ったときには そこで規範的に規定すべきことは なにもない。
そして引用文(t)のやはり最後の一文・すなわち《他者がその還元不可能な差異の故に 性的関係の内に場所をもつのだとすれば このような関係(* 《愛》?)を むしろ 端的に〈性愛 eros 〉と呼ぶべきかも知れない》というのは 内容がわたくしには分からない。

――§43――

けれども その性愛関係は 愛の人間関係一般に従属しつつ――すなわち 規範の問題としては 一般関係から自分たちのこととしての特殊関係へ移行するにあたっておこなう意思表示の問題のみであるということ・つまりは意思表示を介在させるのみということ・もっと細かく言えば意思表示の形式を介在させるのみであること このように人間関係一般に従属しつつ・さらにつまりは 要するに 二人の任意の合意があって――始まるのだが そのあとこの特殊な関係の領域は 愛の一般関係における具体経験を超えるかに見える。そのとき 《任意のコミュニケーション》一般に対する特殊領域のそのような超越性(あるいは踰越性)が 信仰の超越性に似ているように見える。
この問題に対する答えは かんたんである。似ている / または似ているように見える ということで おしまいである。(似ているからには その限りで 何度も何度も特殊と一般とのあいだを往復しつつのように――短絡的に言えば―― 性愛関係の領域から信仰体験のことを参照するようにもなるとは思われる)。性愛関係については その入り口で規範(意思自由の原則とその合意の原則)を捉えたなら あとはいっさい規定しない。したがってその性愛関係の領域でどんなことが起ころうとも つまり回りまわって信仰の問題につながろうが・つなげようが 性愛関係の特殊領域じたいとしては いっさい無規定だということである。つながった信仰問題は すでに人間関係一般の領域に抜け出て来ており 背景としては信仰原点の問題であり 現場としては 愛一般の問題なのである。

――§44――

このようにひととおりの結論を提出した上で あらためて信仰について触れておきたい。つまり大澤の著書の《第8節 信仰》にかんして論じ残した部分についてである。しかも性愛関係に関係している。そこで大澤は たとえば

(t−1) 性愛と信仰との複雑な絡み合いの関係を 旧約聖書アブラハム〔ら〕の物語の内に 確認することもできる。
(p.45) 

などと議論を始めているからである。この部分については この《性愛論》論のあとまで残しておいた。すなわち われわれのほうの第二章の最後(§38)でアンが語っていた問いかけについてである。
すなわちすでに大澤にとって

(q−14a)・・・われわれの仮説は だからこうだ。信仰は 性愛からの転回として 性愛を基礎にもつ飛躍として成立するのだということ。
(p.44)

であった。〔引用文(t)も 同じ趣旨として解せるだろう〕。この《性愛と信仰との複雑な絡み合いの関係》について 三つの例が提示されている。
フロイトにちなんだ例がひとつ。聖書の旧約と新約とからそれぞれ一例である。ここでは 第二例のみ取り上げる。なぜなら第一例は フロイトにちなんで 《愛の準位と信仰の準位との間の断絶性と連続性がともに現われている・・・ある宗教体験》のことが触れられている。これは大澤の議論が短く粗雑である。つまり 覚え書きとしての例示にとどまるゆえ 保留しなければならない。また 《信仰と性愛との複雑な絡み合いの関係》についての第三例は 新約聖書での《処女降誕の説話》が挙げられている。かんたんには比喩に解すべきと考えられる物語なのだが これも説明が短いので なお議論が始められない。
旧約聖書に例をとった第二例は これも議論として 言葉や数字の符合を交えて 他愛ないものだとも言わなければならない。だが われわれの見解は 次のようである。
(つづく→2008-04-12 - caguirofie080412)