caguirofie

哲学いろいろ

#6

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§16――

それでは 孤独の《解除》とは何であると言おうとしているのであろう。
それによって孤独が解除されるという《外部性》――つまりさらにそれによって 《他者》を導こうとするものである《外部性》―― これは まづ《死》として考察されている。

  • このとき重ねて断わるならば われわれの考えでは 孤独を解除するという考えを持たない。そのまま孤独関係として他者を見出す。言うとすれば そこで差異が保持されているとしても 同時に差異の関係も成立していると捉えるのだから その意味ではわづかにそこで孤独も解除されたと言えるのかも知れない。そう感じることがあるかも知れない。ただしこの孤独は ボブやアンが二人三人と集まって初めて 人間にとっての単一性の宇宙体験が出来るなどというものではない。はじめに定義しことわっているとおりである。だから たとえばボブがアンを失ってひとり淋しいといった問題とは別である。つまり孤独の解除は 淋しさが癒やされ心が満たされるという問題とは別である。淋しい者どうしの関係として他者を見出し 孤独が解除されるという問題でもない。――だとすれば やはり孤独にかんして その解除という考え方は 捨てるべきである。

(m) 死は主体としての身体の・・・全的否定であるから 体験の完全な不可能性である。・・・さて 死がこのようなものであるするならば 死とは 体験の可能性の地平であるような宇宙に対する外部性によってこそ 規定されよう。言い換えれば――宇宙の《単一性》は絶対の孤独と双対の関係にあったのだから――死は 身体の孤独を打ち破るもの 他者という場所を指定するところのものにほかならない。
(pp.17−18)

初めにわれわれの結論としては 孤独(独立存在)⇒孤独関係⇒他者との差異関係(関係存在)という単純な見方であり その過程に《死という外部性》を介在させる必要も見ないものである。
全く単純に言って 《他者という場所を指定するところのもの》は 単一性の宇宙体験を抱くボブが 単純に目の前のアンというもう一人の人が存在しているのを知っているそのこと自体である。他の宇宙がありえないと考えられるときの絶対の孤独が――独立存在性が――互いに同等であると想定するとき 孤独関係としての差異関係のもとに他者を見出している これのみである(§11)。(これも 現在性においては 愛の未実現として 他者の見出しの未実現のまま 推移すると言うべきかも知れない)。
《外部性》あるいはそれとして特にこの《死》を経由する必要を見出さないと言った。むしろここに《死》のことを介在させるのは 別の話になると考える。すなわち 推理の同一性(その正解の共有ないし 相互理解)を交換する擬制的なコミュニケーションに陥ると主張する。節をあらためよう。

――§17――

引用文(m)にかんして 《死は主体としての身体の――絶対の孤独にある限りでの独立した自由意志 その選択可能性の――全的否定であるから 体験の完全な不可能性である》 このことにまちがいない。あるいは 《さて 死がこのようなものであるとするならば 死とは 体験の可能性の地平(届く範囲)であるような宇宙に対する外部性》である この規定も当然のことである。次につづく議論に 疑義が生じる。まづその部分を 表現し直してみるなら

(m’) 宇宙の単一性(つまり 自由意志体験は ただこのわたし一人だけのものであること)は絶対の孤独と同時に双対のものとして導かれたのだから その宇宙に対する外部性たる死は 身体の孤独に対しても外部性であって そのような死という外部性においては 身体の孤独が打ち破られる。従って そこに他者という場所が指定される。

問題は 最後の部分での《従って》という推論にある。原文(m)では――やはり最後の部分で―― 

死は 
(B−6)《身体の孤独を打ち破るもの》
(B−7)《他者という場所を指定するところのもの》
にほからない。

というように (B−6 / B−7)がすでに同格関係で表現され 互いに同じ内容のものだと考えられているその点にある。
つまりこの問題に 《孤独の〈解除〉》という概念がかかわっているように思われる。じつはこの段階ではまだ《解除》という言葉は出されていないのだが それがすでに自明のことであるかのように 前提されていると言っていい。引用文(m)につづく一文では 次のように説かれている。

(m−1)レヴィナスが 死においてはついに人は完全な孤独(個別的)である などという通俗的実存主義とはまったく反対に 私の孤独は死によって断ち切られると主張するのは このためである。
〔(m)から承前〕

つまり《わたし》の孤独が死なる外部性によって《打ち破られ / 断ち切られる》というとき それは すでに孤独が解除されるということを暗黙のうちに含ませているように考えられる。解除ということばは のちに次のように用いられている。

(n) つまり 他者が真正なものとして顕現することによって 孤独は 解除されると同時に 潜在的に保守されてもいるわけだ。すなわち 《私》とそれに相関した宇宙の《単一性》についての 痛烈な覚識とともに 他者は 私に与えられているはずである。
(p.26)

《痛烈な覚識》という表現に対しては その曖昧さを指摘するべきだろうが もしむしろこの表現を用いるとするならば われわれの立ち場はこう表わされる。

(n’)《〈私〉とそれに相関した宇宙の〈単一性〉についての 痛烈な覚識とともに》 単一性宇宙の孤独がそのまま――無力のうちに 無力のゆえに―― 孤独関係のもとにある これを知るのだ。

と。だが ここでは原文に即して考えていこう。
つまり外部性としての死によって孤独が打ち破られ そして解除されたとき――つまり 《潜在的に保守されてもいる》と同時に 解除されたとき―― 《絶対の孤独》どうしとして差異関係にあると思われた他者は 《〈わたし〉に与えられる》という議論である。これを どう解決するのか。――つまり別様に 次の一文をも引いておこう。そこでは 《解消》と表現されている。

(o) だから 孤独が解消されるためには コード(* つまり共通知識ないしそれとしての基準)の同一性という現実そのものが 再び 孤独な宇宙の内的な要素として 成立していなくてはならない。
このように 自他的な同一性について確認されているような知識だけが コードとしての資格をもちうる。・・・
(p.20)

だから 《他者アンが ボブの〈わたし〉に与えられ 孤独が解除される》ことは ここでは 決して《コードの同一性》というものが共有されることによってだと言おうとしているのではなく そうではなく 《コードの同一性という現実そのものが ボブの孤独宇宙にもアンの孤独宇宙にもそれぞれその内面に成立している》ときだという。
と同時に 一つ前の議論を合わせて捉えるとき そのようにコミュニケーションが成立したということは 孤独の解除がなされていることを意味し その孤独の解除は 死という外部性が孤独を打ち破るとき得られるという・そのような一連の議論である。
これらが成立するときには ボブにとって《他者アンが真正なものとして顕現》している(m)というわけなのであろう。
次に批判を述べよう。
(つづく→2008-04-02 - caguirofie080402)