#10
――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327
第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である
――§27――
われわれの立ち場はこうである。
ボブはおのれの孤独宇宙のあたかもその地平にたどりついたというとき もはや意志も知性も及び得ない外部 もしくは外部と呼ぶべきかどうかさえも分からない超越性の領域に出会って おのれの存在が全くの偶有性のもとにあって 絶対の孤独であることを知る。そのような《わたし》を 出発点の始動として見出す。なぜなら人間のことばでは そう自称するところから コミュニケーションが始まる。けれどもこのとき かれは 目の前の(直面する)アンと あたかもその《わたし》どうしの関係をとり その関係に入る。相手も《わたし》と自称する互いのコミュニケーションに入る限りでそう捉える。この他者との関係は そのように表現として《〈わたし〉どうしの関係》》と言いうる限りで あたかも二人は同じ生物種であるとして互いに共通性を持つと考えられるが その反面では同時に 互いに他に対しておのれの自由意志の及び得ない絶対の孤独としてしか存在していないと見出している。
以上のような世界の基礎の上に その他者関係のもとに そして関係という愛のもとに その愛にとってささやかに有効な任意のコミュニケーションの過程を歩む。
――§28――
もしこのとき《他者性》という概念を捉えようとするならそれは そもそもとしては 自らの孤独宇宙の果てにたどりついたときの超越性なる非対象かつ非思考の体験の中に吸収されてあると言うべきである。もしその中から経験的に思考しうるように認識の対象として取り出すなら 他者関係なる愛のことである。しかも これとても 想定であり仮説である。
いまこのような事態にかんして事後的にでも出来る限り思考上の説明を与えようとするならば 超越性なる非対象かつ非思考の体験を 信仰体験としてまづ取り上げる必要があるだろう。《他者性》はやはり同じくその中におさまっていると言おうとしているのだが このいまの信仰体験は そこにおける《非対象》をまづ一般的には わざわざ対象化して神なら神と代理表現することになる。
だからこの限りでたとえば 《そもそも初めからの人間存在の条件たる〈他者性〉》というとき もしそれを誰が創ったかなどと一般的に言って問うてみるのならば その答えは いま上に表現を得た神が創ったということになったりする。
だがこのような神は 信仰体験が先にあってそれを説明するために その中の《非対象》をわざわざ認識対象化して得たことばである。この神ないし他者性が 二重三重に あらためて措定されることは 妥当ではない。あるいは無限に抽象化されて 措定されるのは 必要がない。その神ないし他者性が《既に予め私を捉えていた / 既に私に志向していた》と想像してみることは その人の孤独宇宙の内部においてまったく自由であるが それによって他者性や神が 一般的に言って 普遍的に規定されたというものでは ありえない。おのれの主観宇宙の内部ではまったく自由に紡がれた一編の物語でありうるとしても。つまり逆に その物語どおりに体験宇宙が 外の世界にも通じて 成り立っているとするなら それは超越性の領域には到っておらず 信仰体験ではありえないのである。つまり非思考・非対象の体験ではなく あくまでも認識対象たる具象としての《他者性》がすでにあらかじめ私を捉えていたという思考と想像との領域に属しているにすぎない。これは 信仰ではありえない。
さらに言いかえるなら こうである。もし仮りに信仰体験の問題としてこそ その非対象が《既に予め私を捉えていた》とどうしても代理表現したいということであるならば そのときには 《既に予め》の部分を 《そもそもの人間存在の条件なのだ》というように説明すればよい。そういう問題であるだろうし また 《私を捉えていた》の部分を 《超越性 / もしくは おのれの自由意志の絶対の無力》というように説明するのがよい。さもなければ まったく単純に すでに代理表現として得ていることばを用いて 《わたしは神を信じている》とか《神がわたしを生んだ》とか表現していればよい。その以上の・それ以外の事柄を持ち出してくるのは 余計な思弁である。
以上の言い換えは 表現を改めよというために提示したのではなく 信仰体験が先行するということ そして そのあとに事後的な説明表現が持たれるのだということを強調したいためである。そしてその説明表現には 詩的比喩がいくらでも考え出されるであろう。だから おのれの非対象・非思考の体験を《わたしは神を信じている》と代理表現によって説明しようとする人が 一体どうしてこの神をよりにもよって認識の対象である概念として たとえば《他者性》に取って代えようとするであろうか。無神論の人ですら そんな考えは持たないであろう。神を信じない / 無神を信じるという代理表現で おのれの信仰体験をこそ説明するのが 無神論者なのであるから。信仰体験の《非対象》をどうしても思考対象たる概念に取って代えなければ気がすまないというのは いわゆる科学信仰というまちがった臆測の信仰に立つ人のほかにはいない。
けれども この神体験(ないしそれと同等の無神論体験)は 同じく説明のために信仰原点というべき地点を 《わたし》なる出発点に対して 先行するものとして捉えさせることはある。そして そのようであっても その《わたし》の出発進行としての経験的・現在的なコミュニケーション過程においては もはや背景へしりぞいている。神の信仰は 自らを消してこそ ボブやアンに有効な他者関係を得させることが可能である。それは 非対象・非思考体験についての代理表現というものが あくまで代理で仮りの表現であるにすぎないことを貫くことに等しい。言いかえると 神は カミであるとか kami であるとかの記号であってよい。つまり 無神でも 無でもよい。《他者性》という概念は 神に代わるタシャセイという一記号にとどまるのでないとすれば 問題である。つまり信仰説明のための概念であるとすれば 信仰体験をめぐる全体の事態の中におさまっているものでなければならないと考えられる。
《他者性が 既に予め私を捉えていた》という説明表現が 単に《信仰原点は 現実の出発点の〈わたし〉に先行する》という内容を指し示すのみであるとするなら 問題はない。けれどもこの概念は 他者の問題をめぐって 論理思考を展開し 自らの神学というべき観念体系を築くにいたる。のちに見るように大澤自身がそれを《転倒》と やはり別の一面では 規定しているのでもあるが 信仰の擬制に到り 無効の世界に入ると言わなければなるまい。
――§29――
前節での議論を確認しようと思えば まづ一つに ボブにとって具体的なアンなる他者のほかに 表現上《既に予め私を捉えていた / 既に私に志向していた》と言いうるような神を――ここですでに――説明のために想定するということも あるいは可能であるかも知れないとは言いうる。ひるがえってそのように考えてみるとき しかもこのことは あくまでどこまで行っても 先行する信仰体験の説明のために事後的に得られる議論の問題である。逆にそうであるから つまり信仰原点が出発点に先行していると考えられるゆえに そのような創造神のごとき説明表現が可能となるのだと言える。けれども 二つには この神が 《真の他者性の担い手として 〈あらためて〉措定される可能性が出てくる》と言うのは 理解しがたい。余分な二重措定であるばかりか その推論の順序がまったく逆だと言わなければならない。
すなわち 引用文(q−2)につづく次の議論は 前半(《今や》以前)がおおむねわれわれと共通の了解のもとにあり 後半が 不要であり不可解とするところである。
(q−3) もともと他者(* アン)においては その空虚(* 不在)(* ボブの自由意志宇宙の外であること)と存在(* アンの自由意志としての体験宇宙)がまったく同値な事態だったのだが 今や この《空虚》を それ(* この それ に傍点がある)の不在によって生じた欠落として位置づけることを許すような積極的な他者(* =内容不明)が 空虚のさらなる彼方に措定されるのだ。
(承前)
任意のコミュニケーションなる他者関係において ボブの意志宇宙にとっての空虚(不在)は いまアンなる他者の存在を意味するのであるが 《空虚のさらなる彼方に》は アンの存在(その意志宇宙)でもない積極的な別種の空虚が 措定されてくると言うようである。わざわざ そう言うのである。アンとボブとの他者関係は 他者性なる概念として持たれ さらには アンとボブ二人の存在のほかにあたかも別種の究極の《他者》として存在していると言おうとするかのようである。信仰体験を説明するために用いられる記号にすぎない神が 究極的な抽象概念として存在するとされようとしている。
(q−4) 《空虚のさらなる彼方にある》ということは ここでの論脈で理解すれば 私=自己と同じ現在を共有していないものとして つまりあらかじめ存在していたものとして定位されている ということにほかならない。この意味で――直接の知覚的な現認に対する現前=現在(* ボブにとって目の前にいるアンなる他者)に還元しえないという意味で―― あらためて《真の他者》として彼方に措定された身体は 抽象的な性格を帯びざるをえない。
要するに 現前する《この他者(* アン)》は 私の視線に つまり私の知覚・感覚的な志向作用に直接に相関して現われている限りにおいては 真の他者とは見なされず そこからさらに遠隔へと退いた場所 知覚・感覚的な志向作用に対しては直接に現前しない場所に 他者(* アン)の《真の場所》(* 《ほんとうの他者性》というほどの意味なのであろう)が投射される といった転倒が生起することがありうるのだ。こうして 遠隔化された 抽象的で虚構的な《他者性》(* 真の他者)が成立する。《他者》は 知覚・感覚に対しては与えられず 抽象的なものについての判断や思考の対象としてのみ存在する他者である。
(承前)
長々と引用したのは 《他者なる神》の規定が 二重の措定によって余分であるだけではなく その想定の順序が逆にであることによって まったくの《転倒》として現われてくることをよく説明しているとは思われたからである。《有対象・有思考》の他者(神)がこしらえ上げられる筋道である。転倒と捉えることにおいて大澤自身も反面では このような《他者》なる神概念ないしそれにもとづく信仰が 擬制であると言うかのように 批判的なのでもあるが それならそれで このいまの時点でそのことを指摘していなければならない。もしくは (い)《他者アンの真の他者性ないし 真の場所が 空虚のさらなる彼方に 投射される》といった転倒が生起することがありうるのだということと (ろ)その中での初めにある《真の他者 / 真の場所》という想定じたいが転倒であり擬制であると指摘することとは やはり別である。(は)愛の他者関係について《他者性》という抽象概念が得られることと (に)これが《真の他者》としてさらに抽象概念化されることとは 全く別である。
要するにいまの《他者》なる神についての問題は 《抽象的なものについての判断や思考の対象(* つまり 有対象・有思考)としてのみ存在する》という規定内容に明確である。いかに抽象的であるとしても 認識対象を伴なった思考体験は まったくまだ己れの孤独宇宙の内部のものなのだから それが 外部にかかわる他者ではありえない。経験思想として信念・信条にはなるかも分からないが 超越性にかかわる信仰では全くありえない。言いかえるなら この《他者》なる観念の神は 一個の孤独宇宙の内部で 転倒を起こし――つまり出発点の《わたし》とその信仰原点とのあとさきが その順序の転倒を起こし―― 擬制として作られたものであり あたかも自家中毒とでも呼ぶべき無効として成り立ったものである。
(つづく→2008-04-06 - caguirofie080406)