神という経験(?)
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
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一つ質問なのですが、神は非経験であるにもかかわらず、信仰を通じてそれを知る事ができる?というのは矛盾してませんか?
信仰と言う体験、経験の場にわずかでも神が顔を出すならば、それは非経験とは言えないのでは?
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☆ 《非思考の庭がわが心に成る》いきさつを説明します。
(あ) 神とはなんぢゃい? と いぶかったり うたがったりする。
(い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると これは想定として 定義づける。
(う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。
(え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。
(お) このとき わが心なる非思考の庭が 成ります。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼びます。
☆ したがって 《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうなのですが―― 精確ではありません。
(か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことです。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは 単なるカミにせよです。
(き) あとは 人間という存在の社会性――生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来ます。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来ます。
(く) あくまでおのれの心の中で・おのが主観の内において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っています。そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいコトです。
(け) しかも つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。
(こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。
(さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・
☆ 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来ている。不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのでしょうか。
(し) この経験世界に 神は介入するか?
(す) 分かるわけがありません。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれるでしょうね。それを共同化することは 出来ません。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときです。
(せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為であるという・人間の特殊な現実です。
○ 真理と事実と真実 〜〜〜〜〜〜
普遍真理(非経験)――信じる
世界事実(経験)――考える
主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》
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★ また、非経験における謎の何者かを神と想定されているようですが、非経験でしかも謎であるのに、そこに存在者としての神を想定することなどできるのでしょうか。想定した時点で、それは思考の緑野に属し、ブラジュロンヌの言う信仰とは言えなくなるのではないでしょうか。
☆ 《存在者》だとは 神を初めに想定したり定義したりするのではありません。
(そ) 初めは 神とは何ぢゃい? です。なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからです。
(た) おそらくこの言語習慣という社会関係性としての事実も 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れません。
(ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言いましたが 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないでしょうか。
(つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行きます。
《わたしはある》 それがわたしである。
こういう説明もあります。これが 神のことだというわけです。つまり 存在として受け留めた表現例だと思います。
(て) はじめの想定も そこで無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべておっしゃるように思考の緑野における人間のしわざです。いちおう 区分がなされており この思考のこころみは それとして限界があるということも分かっています。
(と) ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。
(な) つまり この不届き者が 組織宗教です。すでに信仰ではなくなっています。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあります。その内実は ムレタガリ症候群でしょうか。
★ ブラジュロンヌの信仰を、私なりに解釈するなら、心の解放ということになるが、どういうわけでそこにそこに神が関与してくるのか、よくわかりません。
☆ 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もありません。
(に) それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるのでしょうね。
(ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。
(ね) 《真理》も 説明書きのシルシです。究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのですから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線です。ですから
★ 真理に依拠することで心を解放するというのなら理解できるが、神という名称は、あたかもそこに何者かが存在しているという印象を与えてしまうと思うが、それについてはどう考えているのですか?
☆ というとき すべては シルシですから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばないわけです。
(の) 真理だから それに依拠してよいとか 神だからそれはうるさい存在であると感じるとか あるかも知れませんが それは 問題としません。あやまった習慣から来ているものでしょう。
(は) ひとつの見方として すべては 人間の持ち使っているコトバの問題であるとも見られるかも知れません。
(ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界です。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ねる。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。と捉えた限りでは このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられて来る。
(ふ) ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられる。もともとの心に立ち帰る――》という主題にも行き着く。のでしょうか。
(へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのでしょう。
(ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。
(ま) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。
(み) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。
(む) これが 神(宇宙なるナゾの非経験の場)および信仰(わが心なる非思考の庭)ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論であると見ます。
(め) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば―― 世界もめざめるでしょう。
(も) これが わたしのエゴです。いつわらざるコンタンです。