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哲学いろいろ

エレミヤ書31:31以降

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

クリスチャンは エレミヤ書31:31以降をどう解釈するか?


 新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。
 ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7−13) 〜〜〜〜〜〜〜
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (旧約聖書エレミヤ書 31:31−34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
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 ☆ すなわち たたき台として 次です:

 (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。

 ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。
 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。

 板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。

 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。

  すなわち
 (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
  ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。

 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。
  ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。

 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。