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哲学いろいろ

梵我一如!?

 ★ 何はともあれ、力の生滅を自由にできたり、その原理や法を知れば、サンサーラ(流れ)、つまりは輪廻からは解放​されるでしょうね
 ☆ けっきょくブラフマン(=アートマン)のもとでは 全知全能のごとく 何ごとをも起こし得るということではないでしょうか。
 梵我一如は 理論を超えて(つまり 感想程度で言えばということですが) すごいです。
 
 それにくらべると ほとんど同じ形式の世界観であると思われる《宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)》や《世界霊魂(アニマ・ムンディ)》――つまりそれらと《われ》との一体観――は どうもどこか観念的であるように感じます。(感覚のもんだいとしてです)。

 しかも〔個人の信仰を言語表現化してすでにほぼ逸脱したと捉えられるところの〕キリスト教のオシエは じつはこれもけっきょく 《〔われに〕神の霊がやどる》とか《あなたの身と心は 神の霊のやどる神の神殿なり》と言うわけですから かたちとして梵我一如の路線です。

 だとしたら 《無我ないし空》も 枠組みは梵我一如なわけです。その中身が 空だとつまりからっぽだと天の邪鬼のごとくとなえている。に過ぎない。無神論は それも《無い神》の信仰です。
 しかも ゴータマ氏は そこのところをはっきりさせない。あいまいなまま 神通力を発揮したというかたちで 久遠からの(過去七仏を経るかたちでの)生命存在のようなことを説いていると思われます。
 けっきょくかたちとして梵我一如の枠組みの中に組み込まれるのを嫌ったか さもなければこの《非経験の場‐われ》なる関係としての信仰ということについて何も知らなかった。と推し測られて来ます。


 そうして キリスト・イエスはと言えば とにもかくにも《神》を指し示した。信仰としては・つまりその類型的なかたちとしては すべて《神‐われ》の関係は 世界広しと言えども・いかにじんるいが進化したと言えども まったく同じである。と言ったはずです。オシエとしての宗教 これは 要らないと。

 かつては 民族としてのまとまりとそこにおける秩序が得られることを目的として――モーセをとおして――律法ないしオシエのかたちで 信仰の宗教化がなされた。それはもう要らないと。
 しかも 世界のありとあらゆる宗教についても もうそのオシエとその特定のオシエを基とした秩序を目指す組織宗教や集団における共同生活としての宗教文化は 個人の信仰にとっては どうでもよいものであると。

 個人(アブラハムの実例)から集団志向となり やがて国家が建てられ さらには時を経て国際連合(諸民族≒諸国家の一体)にまで発展した。発展したところで この国家なる形態また民族という枠組み これらは ふたたびあらためて個人の次元をとうとぶ成り立ちとしての――素(す)の状態のような――社会のかたちに落ち着いて行くでしょう。

 その――いま現在における動きとしては―― インタムライズムだと見ます。お二階さんが 一階の市民社会大政奉還するという志向であり方向性です。むろん世界的な流れを想定しています。