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哲学いろいろ

パウロとペテロ

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
◇ III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか?
 ☆ 解説書を読むと 当時において〔も〕 遠くは預言者の系譜として 文書としての律法(ないし聖書)をおしえるサドカイ派パリサイ派の人たちのほかにも 《口伝律法》を民衆に巡回しておしえる《ラビ(教師)》が多くいたと言います。(以下 〈聖書と口伝律法とラビ〉 in  河合一充編著『ユダヤ人イエスの福音――ヘブライ的背景から読む』 2012 によります)

 このようなあたかも私度僧のごとき教師たちの一人であったと言います。つまり イエスがです。

 《十二》というのは ユダヤ民族の支族の数に合わせたのかも分かりません。(この点は わたしの推測です)。ほかにもいたと言い 金持ちの息子などは 弟子としてついて行けなくなった場合が書かれていますね。

 つまり 名だたる教師には 弟子も多くいたということだそうです。それが ふつうだったのだと。



 ◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?
 II パウロ十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?
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 ☆ (あ) イエス・キリストについて 《おしえ》は 主要な問題にはならないと考えます。

 (い) 万人にとっての神――《無い神》をふくむ――を指し示したことが いちばんだと見ます。

 (う) 《真理とめぐみ》をもたらしたと言いますが 真理とは そのじんるいにとっての《全体としてひとつの神》のことです。その神への 心の明け これが 《道》であり 《生命》であると。(《向こう岸(彼岸)へと筏で渡る》というのとも ちょっと違う)。

 (え) 《おしえ――または パウロの言う《文字》――》は要らないとおしえた(!?)。

 (お) 生まれながらの きよらかなおそれ これのみだというオシエを人びとに押しつけた(!?)。それにしたがうならば 幼子のように 元気が出ると告げた。これが 《めぐみ》である。

 (か) 真理はきみたちを自由にする。

 (き) メグミ( grace )というのは タダで(無料で)( gratis )そなわっているという意味でもある。その幼子のごとき心のあり方が すべてであると語った。とにかく元気が出るのだと。出ないのは 信仰ではない。

 (く) これらのことを パウロは――そのことをわたしは アウグスティヌスをつうじて理解したのですが―― 語っている。

 (け) 十二使徒の一人ひとりについては分かりませんが ペテロは そのパウロの信仰説明について分かっていたであろうと推察します。夢の中で 大きな風呂敷が出て来て その中にいろんな動物だかが入っていた。つまり どの言語のどの民族も ひとしくキリスト・イエスの指し示した・万人にとっての神のもとに生きるということを ペテロは知っていた。

 (こ) ただし ペテロは そのあたらしい信仰のかたち――特には従来の儀式やナラワシから自由であることとしてのあたらしいかたち――に慣れていなかった。

 (さ) もしペテロは 一般にそうであるように弟子たちの代表として語られているとするのなら ほかの弟子たちも 同じくあたらしい信仰のかたちを知っていた。ただし 昔取った杵柄が忘れられなかった部分が多かったのかも知れない。




 ◇ イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい / ということなのでしょうか?
 (し) 《律法》は 集団として生きる場合の交通法規です。

 (す) 中身として 個人にとっての信仰と同じものであるとしても・ですから《良心》の問題として捉えることにも対応しているものであるとしても 交通信号のように ほかの人びともそれを守るというかたち――つまりは そのようなものとしての社会的な約束ごとないし取り決め――としてはたらくのだと考えられます。

 (せ) つまりは 交通法規を守るというのは 人やクルマの流れがすんなりと行くようにという・或る種の仕方で外形的な意味合いを持つ側面と そして 人間どうしの交通つまりコミュニケーションとしての良心や信義の関係という側面とがあると思われます。

 (そ) あたらしいかたちの信仰にもとづくなら 基本的に言って・一般的に見て 心の内面についても外面においても 律法を守るという姿勢は受け継ぐと言っているものと受け取ります。