恩恵と自由意志
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
◇ 1 キリスト教は、基本的に《主⇔従》、《A⇔S》の論理だから
☆ この問題について 次のように考えます。
すなわちわたしの筆のチカラは及びませんので 例によってアウグスティヌスです。
▼ (アウグスティヌス:自由意志と恩恵) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それでは〔* 神と人とが絶対的な主と従との関係にあるとすれば〕 〔* 自然本性としてそなわった 人間の〕自由意志をわたしたちは 恩恵(* すなわち神の意志 もしくは 自然本性のナゾの霊なるチカラ)により無効にしているのか。断じてそうではない。かえって わたしたちは自由意志を立てるのである。
* 言わば悪夢を正夢にしないようにと考えるその自由意志を立てると言い
ます。
なぜなら 律法(* すなわち 経験行為の法則のごとき倫理規範)が 信仰(* すなわち ナゾ〔にもとづく経験判断〕)により無効にされず かえって立てられるように(ローマ人への手紙3:31) 自由意志も恩恵により同様にされているからである。
* 自由意志は 神の恩恵に勝てなかったのですが その恩恵によって
自由意志は かえって建てられると言います。
実際 律法は自由な意志決定によるのでないなら 実現されないのである。
* つまりは 信仰をとおして 神の恩恵が 愛として はたらき わ
れわれの意志による自由な選択によっておこなう行為を 成就させ
る。律法の内容を成就させる。
そのとき 一人ひとり《わたし》の自由意志によるおこないが
関与しているし 関与していないものは 恩恵とも成就とも言わない
と考えられるでしょうか。
と言っても この問い求めている生活内容としての勝利が いま
は保留されていると思われます。
成就と 簡単に言えるものでもないはずです。つまり 神の信仰
のもとに持つ生活態度にかんする有効が この現実においては 無力
であり わたしたちは 弱い。
しかも この弱いときに 信仰としてのナゾを持っているから そ
の有効に意志するところが ただちに実現して 社会的に有力となら
ないとしても 自由意志は かえってまったき自由として 立てられ
ている。と考えられるかも知れません。
つまり いまだ有効が社会力学じょうのチカラを持たない段階でも
もし仮りにチカラを持って実現したとする段階においても けっきょ
く同じように すでに その可能性の幅いっぱいに わたしたちの自
由意志は 伸びて行ってよいと考えられます。
(アウグスティヌス:〈恩恵は自由意志を確立する〉=《霊と文字》§30 金子晴勇訳)
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☆ つづけて アウグスティヌスの議論によれば 《恩恵により自由意志が確立されていく》過程が いくつかの段階として 考えられると言います。
これは 護教論のごとくであり またけっきょく古臭い内容であるのですが 上記の引用のままでは中途半端かと思われます。かえってがっかりさせる内容ですが 引いておきます。
▼ (同上) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかし そこ(* 恩恵により自由意志が確立されていく過程)には次の中間段階がある。つまり
1.律法により罪の認識(ローマ3:20)が〔* 現われる第一段階〕
2.信仰により罪に対抗する恩恵の獲得が〔* 現われる第二段階〕
3.恩恵(* ナゾだから 《ただ(只・無償)》だということ)により
罪の悪徳からの魂の治癒が〔* 現われる第三段階〕
(* これによって 人びとは 世間とまた自分自身と和解できる。)
4.魂の健康により意志決定の自由が〔* 現われる第四段階〕
5.自由な意志決定により義に対する愛が〔* 現われる第五段階 その
あと〕
6.最後に 義に対する愛により律法の活動(* つまりはむしろ自由意
志の望んだところ)が 成就されるのである。
あたかも鎖の環のように互いに連結させてわたしが述べたこれらの〔* 中間段階の進展にかんする〕真理はすべて 聖書のなかにその表現が見いだされる。すなわち
1.律法は言う。《むさぼるな》(出エジプト記 20:17)と。
2.信仰は言う 《わたしの魂をいやしてください。わたしはあなた
にむかって罪を犯しました》(詩篇41:4)と。
3.恩恵は言う 《見よ あなたはいやされた。もう罪を犯してはな
らない。あなたにもっと悪いことが起こるかもしれないから》(ヨ
ハネ5:14)と。
4.健康になった魂は言う 《わが神 主よ。わたしがあなたにむか
って助けを叫び求めると あなたはわたしをいやしてくださいまし
た》(詩篇30:3)と。
5.自由意志は言う 《わたしは喜んであなたにいけにえをささげま
す》(詩篇54:6)と。
6.義に対する愛は言う 《不義な者らは喜びについてわたしに語り
ました。しかし 主よ かれらはあなたの律法にしたがいません》
(詩篇119:85)と。
(アウグスティヌス:承前)
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☆ すなわち ひとは神に対して《主( A )-従( S )》連関の関係において確かに基本的にあって しかも現在過程として 《わが心なる霊なるナゾ(非思考の庭)の有効が無力のままで社会的に勝利すること》だと捉えます。
すなわち この《わたし》の現在時に わたしの考えですが 信仰ですから 終わりの《6》から始めるということをつけ添えさせてください。即身成仏ないし即得往生ですから。すなわち たぶん 予感において勝利している。《 A - S 》連関が 《 S 》を基礎として主体として建てられた瞬間でしょうか。
むろん うたがいを差し挟まれたと思われるごとく この経験世界においては まぼろしです。
しかも まぼろしだと平気で言っていられるのは 《 A - S 》連関が 《 S 》を主役として建てられたと予感しているからだと思います。
クリスチアニズム一般が この《 S (人間スサノヲ)》を主体として神との関係が建てられたことを見ないし言わないとすれば それは 人間には不治の病としてのような原罪が横たわっていると言っていることになります。これは マチガイだとうったえます。
アウグスティヌスは けっこう権威をいまも保ちつづけていると思いますので クリスチアニズムの人たちは これについてご見解をのべていただきたい。こう考えます。