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哲学いろいろ

水による洗礼は必要か

(2004.3.12)


§ 1 なぜ水による洗礼を受けないのか。

  それは 寄るべき聖句(A群とする)を二点挙げることができる。

 (A-1)《ヨハネによる福音(John)》1:13(新共同訳)
 この人びと(《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の欲(あるいは《肉の意志(will)》)によってではなく 人の欲(あるいは《人間の意志》)によってでもなく 神によって生まれたのである。


 (A-2)《ローマの信徒への手紙(Rom)》10:9−10

 口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。

これら二例に表わされたキリスト者は 霊による洗礼を受けたものであり その状態においてすでに 水による〔および霊による〕洗礼を受けたクリスチャンと同じ 神の子らであると考えられるからです。

§2 しかしながら 聖書ではほかの箇所(B群とする)で霊のほかにさらに水による洗礼が必要と言っているではないか。

そのとおりである。いま議論の必要上 重要なものとして四箇所を挙げる。

 (B-1)John 3:5

 イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》


 (B-2)Matth. 28:19

 《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》



 (B-3)《使徒言行録(Acts)》2:38-39

 すると ペトロはかれらに言った。《悔い改めなさい。めいめい イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》


 (A-3) Acts 8:16 (次はむしろ上の聖句に反するような内容)

  〔サマリアの〕人びとは主イエスの名によって洗礼を受けていただけで 聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。


 (B-4)Acts 22:16

 〔アナニアからサウロ=パウロへ〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》


 (A-4) 1Corinth.1:17 (これもむしろ 逆の内容だとも読めるものとして)

  なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。


無論ほかにも多くのB群の例がある。そしてこれらの例は 洗礼という場合 おおむねすべて 水による洗礼を言っていると考えられる。 

従って いま§1で述べた洗礼拒否は 人間のことばによる表現上 上のようなB群の聖句に逆らっていることになる。しかも B群の聖句は それらが消えてしまわない限り 守って従わなければならないとさえ考えられる。


§3 それでも洗礼拒否を続けるのか。

 現在のところ 保留ということは 拒否という内容に行き着くと考えられても致し方ない。


§4 その矛盾について いかに考え どのように説明しようとするのか。

 〔論点(T)-1〕 まず第一に全般的なこととして キリスト者という存在について私は基本的に次のように考える。キリスト者に対して課された《命令》は 《神を愛すおよび人を愛す》という二つにして一つのことがらであると。これのみであると。
 (ファリサイ派の律法の専門家に尋ねられたイエスがこれら二つの事柄が最も重要な掟であると語っている。Matth.22:34-40)

従って 例えば水による洗礼が この《掟》のほかに絶対条件に加えられるとは 人間の理性の問題に限るならば 考えられない。

言い換えると 人は キリスト・イエスの十字架上の死とその後の復活のあとでは まず潜在的にすべての者がその罪(原罪)を赦され この条件の下で聖句(A-1)や(A-2)にあるように 聖霊のはたらきによって 信仰を与えられる。このクリスチャンは そこで 《真理はきみたちを自由にする》というように自由にされ そのあと わずかにこの自由を制約するものとして(もしくは むしろこの自由のもとで 能力を与えられてのように) うえの掟すなわち《心を尽くし 精神を尽くし 思いを尽くして かれの神である主を愛し かつ 隣人を自分のように愛す》ことへ促されるものと思われる。

ただ このテーマは 論点がこの《掟》ということに絞られているようでいて 実際には 信仰のあらゆる領域にわたっており 議論が拡散しかねない。この基本方針の提出のみにとどめる。

  Cf.(A-5) John13:34

     《・・・あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように あなたがたも互いに愛し合いなさい。・・・》

§5〔T(論点)-2〕この水〔と霊と〕による洗礼は 洗礼者ヨハネの水による洗礼(これとてキリストの神のはかりごとであろう)という行事を承けて キリスト・イエスが始めた制度だと考えられる。・・・

〔T(論点)-2〕この水〔と霊と〕による洗礼は 洗礼者ヨハネの水による洗礼(これとてキリストの神のはかりごとであろう)という行事を承けて キリスト・イエスが始めた制度だと考えられる。しかるに イエスが自分に関して自分が《去って行かなければ 聖霊は来ない》(John16:4-15)と言ったように 聖霊による洗礼は厳密には かれの受難と復活とのあとのことだと捉えられる。

ということは たとえばイエスの生前に施された洗礼について どのように考えればよいということになるだろうか。

 (B-5)John3:22-4:2

 イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた。・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・


この文章は 《弟子たちを執行者として 神キリストの権能において キリスト・イエスが人びとに水による洗礼を授けている》というバプテスマの基本的な内容として 一応 理解することができる。だが 実は 聖霊(弁護者)がまだやって来ていない時期のことである。イエスの生前のときのことだ。〔ちなみに (A-3)の場合は 復活のあとのことである。〕

 (A-6) Acts1:5

 (復活のイエスの語るには)《・・・ヨハネは水で洗礼を授けたが あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。》


もし仮にこのように単純に キリスト者の誕生は ただ聖霊によって信仰が与えられる時に成就すると捉えるとするならば たとえばイエス以前の昔の人・アブラハムの信仰の完成も イエスの誕生と死と復活とによって成就したと言える。けれども霊のほかに 水による洗礼もその信仰の完成にとって絶対条件になるとなれば アブラハムらは もはや救われないかも知れない。水による洗礼を受ける機会は絶たれている。

またイエスと同時代を生きた例の犯罪人のひとりも 隣の十字架上のイエスから《あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》(Luk.23:43)と言われた時 〔イエスが復活した後という事後的なことになるとしても〕聖霊による洗礼を受けてその信仰が与えられ そこで成就すると捉えられる。水による洗礼を受けることが出来たかどうか さだかでなく その可能性は少ないから。

§6 〔T(論点)-3〕 John3:5《水と霊とによって生まれなければ・・・》の解釈。

このイエスの言ったことばの中の《水》は まず第一には勿論 目に見えるかたちの物質としての水である。ただ 上の論点〔T-2〕にちなんで捉えようとするならば そのほかに比喩として抽象的にも解釈が及ぶかも知れない。

たとえば《マルコによる福音(Mark)》の中で洗礼にかかわる文章を取り上げてみると いまの比喩の方向性がわかるように思われる。全編の中から 洗礼者ヨハネの洗礼に触れた箇所などを除けば 論点となる文章は限られてくる。

 (A-7) Mark10:38

 イエスは言われた。《あなたがたは 自分が何を願っているか 分かっていない。わたしが飲む杯を飲み このわたしが受ける洗礼を受けることが出来るか。》


このイエスが《受ける洗礼》は 《飲む杯》がそうである(Mark14:36)のと同じように 比喩で語られている。また両者は 内容も同じだと考えられる。当然 十字架上の受難のことである。〔この文章のあとすぐ 《確かに あなたがた(弟子のヨハネヤコブ)はわたしが飲む杯を飲み わたしが受ける洗礼を受けることになる。》(10:39)と語って 弟子たちがイエスと同じ受難に遭うと言ったかたちだが 厳密には 人類の罪を贖うイエスの受難とそしてヨハネたちのそれとは違っていると言わねばならない。キリスト者ゆえの受難ということで イエスは語ったのであろう。〕

したがって このときの《洗礼》は 《水》というよりも 《火》といったほうがよい。苦難にかかわるものとして。つまり

 (A-8) Luke3:16

 〔洗礼者ヨハネの語るには〕《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は 聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。・・・》

というように 《火》については ルカが触れている。と考えるならば この方向は その限りでさらに発展する。火の表わしうるような受難は 赤の色が同じであるように そして弟子たちの殉教にまでつながっていくかのように また別様には《血》のことである。

 (A-9) 1st John(ヨハネの第一の手紙) 5:6および5:8

 この方は 水と血を通って来られた方 イエス・キリストです。水だけではなく 水と血とによって来られたのです。そして 《霊》はこのことを証するかたです。《霊》は真理だからです。

《霊》と水と血です。この三者は一致しています。

すなわちこの論点〔T-3〕として ひとまずまとめるとすれば次のように考えられるのではないか。いま 《水と霊とによって生まれなければ・・・》(John3:5)をあくまで比喩として解釈しようと思えば 《受難=贖いの死(水=火=血)》とそしてその後の《復活(霊)》とを象徴しているのではないだろうか。

(ここつまり(A-9)での《水と血》とは まず当然文字通りには 傷つけられて外へ出た体内の水と血とを意味していることは 無論はっきりしている。)

さらにつまりは たとえばパウロが次のように言う。

 (A-10) Rom6:3

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆 またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。


ここで 《キリスト・イエスの死にあずかるために受けたわれわれの洗礼》とは《一致して水であり火であり血であり そして同じく霊であるというその内容をもって 一般のわたしたちが あたかも十字架のうえで磔になるかのような経験を持つ出来事》を比喩的に指している。一般には 精神的な出来事として・つまりそのような意味での種々の内容の受難として捉えるとよい。ただ 他方で確かにまた 前者の《キリスト・イエスと結ばれるために受けたわれわれの洗礼》というのは まさしく目にみえるかたちでの水によるそれのことを指して言っている。

とりあえず言えることは 《聖霊〔のみ〕による洗礼》が 比喩としての解釈における限りで 《水・火・血》をもすべて含む形で 《かれの贖いの死をあたかも受けて・赦しによる再生を与えられ・そして復活・永遠の生命へ導かれる》ことを内容として表わしているということではないか。比喩の問題に限るならば そう言えるのではないか。同じ論点を次にも引き継ごう。


§7 〔T(論点)-4〕《水と霊と》から《恵みのうえにさらに恵みを》(John1:16)へ。

 (A-11) John1:16

 わたしたちは皆 この方の満ち溢れる豊かさの中から 恵みのうえに さらに恵みを受けた。

先の論点〔T-3〕の結論を継ぐならば──同じヨハネの福音の中にあって── この聖句の中の最初の《恵み》は ある日ある時われわれが あたかも彼と同じように《わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまいしや》と言ってのように何らかの受難に出遭い そこであたかも《死》を受けると同時に《かれの贖いの死にあずかることにより原罪の赦し》をも受けることを言う。

そのほかに さらにそのうえの《恵み》とは 《再生し やがて信仰の成就を得てかれと同じ復活にあずかり永遠の生命へと導かれること》なのであろう。

 (A-12) Rom6:4

 わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ その死にあずかるものとなりました。それは キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように わたしたちも新しい命に生きるためなのです。


と言うようにだ。ここまでは われわれの信仰内容として おおむね妥当と思われるかたちで──それは推論にすぎないけれど──捉えられるのではないか。論点の収斂するところは 次である。

《水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることは出来ない》というとき 《霊》はもちろんであるが 基本的に《水》も 《われわれが自分の人生においてこの世界のなかで なんらかの受難に遭って あたかもキリスト・イエスと同じように十字架のうえにはりつけにされるというかのような出来事を被る》ことを現わしているであろう。このとき そのような比喩の意味のほかに 文字通りに《自然の水のなかにわが身を浸ける》ことが まず先に表現されているのだが こちらの意味内容をも 絶対的に必要な条件として 現わしているかどうか これである。 

ちなみに マタイ福音の参照箇所〔(B-2) すべての民に対して 父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ〕については おそらく比喩による解釈はできないか または すべきではないだろう。そのことばは すでに受難の後 復活のイエスが述べている。

§8  それでは なんと考えるべきであろう。

 〔T-5〕  信仰の始まりにかかわる聖霊のはたらき──すなわち《死の苦しみでありつつ同時に再生の恵みであるものへと変えられる出来事 それはさらにその上にも恵みが与えられることになる そのような出来事の発端もしくはむしろ授与者としてのはたらき》──を比喩において意味するであろう《水》〔あるいは《火》あるいは《血》〕は いま別としよう。そうではなく その水を具体的に捉えて 水の中に身体を浸け洗礼を受けるということに限って考えるならば どうなるか。

これは 論点〔T-2〕で触れたように イエスの生前のとき行われ 復活のあとにも弟子たちが人びとに施していたからには  まずもってキリスト・イエスが始めたことだと考えられる。

そしていま ほとんど何の用意もなく述べるとすれば イエス・キリストはこのような制度ないし儀式としての水による洗礼をも 弟子たちに 行なうよう指示したのだと考えられる。別様に言い換えるとすれば それは しかしながら 《おきて》として与えたのではないと捉えられる。絶対の条件として 決定してはいないと考えられる。

その理由は 単純なかたちでしか言えない。信仰の始まりにとって 比喩としての水のほかに 自然の具体的な水による洗礼が 絶対に必要だとするならば A群の聖句に表わされた聖霊のはたらきが 聖霊のはたらきそのものだけでは 完全なものではなくなるということになる。

つまりは われわれが罪の赦しから再生へと導かれるその信仰をもたらす聖霊のはたらきかけに関して この聖霊はそれ自身のはたらきのほかに 水による洗礼という行ないをも含めて 両者一体とならなければ 完全なものではないということになる。もしそうだとすれば そのときわが信仰は 部分的には 人間による経験上の具体的な授洗に寄り頼んでおり その受洗に一種の根拠を置いており ある種のかたちでその洗礼によって決定づけられていることになる。そうではないだろうか。

つまり 逆に言えば そのとき人は《少なくとも部分的には 〔バプテスマを授けるという〕人間の意志〔による行為〕によって  生まれた》ことになってしまう。それは (A-1)の聖句の内容に反する。
 

§9 以上のように考え〔水による洗礼を拒否す〕ることによって わたしは わが信仰の導き手であるアウグスチヌスの見解に逆らうことになる。

アウグスチヌスの見解には 簡単に触れることにしたい。

ただ その前に 上の§8の段落で述べたことを改めて確認しておきたい。A群の聖句に基づこうとするそのわたしの結論は B群の聖句を文字通りに読むならば 明らかにその解釈と異なっているということを認めておかざるを得ない。

つまりは一般的な言い方をすれば 《文字通りの浸水としての洗礼(つまりB群)》と 《比喩として火や血やまた当然のこと霊と互いにすべて一致すると解釈されるばあいの水 の洗礼(つまりA群)》とは  字面のうえでは互いに必ずしも連絡しあっていない。A群の 水の洗礼は あきらかに聖霊のはたらきにほかならない。そのはたらきが完全なものになるために 仮にたとえばB群の具体物(水)ないしはそれを用いる人間の動作や意志が 不可欠だというとすれば どうなるか。

けれども そのことは 考えられない。その仮りの場合をよしとすれば 神は完全ではないと言うことになる。

キリスト・イエスが始めた洗礼という制度・ないし行なうように指示した授洗の儀式 これは 聖霊による洗礼を 補完するものではないと考えられる。それが 聖霊による洗礼と一体となって 両者相俟って 初めて 信仰が十全に与えられるというようなことがらではないと考えられる。そして 字面のうえでは 水による洗礼も 必要だと伝えられていると捉えられる。  

段落を改めよう。

§10 アウグスチヌスの見解について

次の一文のみ掲げておく。また 小さな議論をして この中間報告を終えたい。

 (Aug-1)・・・霊の洗礼のみならず 水の洗礼を授けるのもまたキリストであることを知ろうと思わなければならない。・・・

 〔Epes.5:25~27〕・・・キリストは教会を清められる。・・・ことばを伴った水の洗いによって。・・・水が欠けても ことばが欠けても それは洗礼ではない。
 ( 《ヨハネによる福音講解説教》§4-4)

   

ところで かれは 洗礼者ヨハネの洗礼について いづれ それが必要でなくなったということを はっきり述べている。

 (Aug-2)・・・見よ ヨハネ聖霊に満ちていた。彼は人からではなく天からの洗礼をもった。彼はそれをどれだけの間もっていただろうか。《主の道を備えよ》と彼自ら言っている。主が知られたとき 彼は道となったのである。主のために道を備えたヨハネの洗礼はもういらなくなったのである。

( 同上§1−15)

そして 確かに アブラハムからの割礼は これも 要らなくなった(Acts15:1~29エルサレム使徒会議)が イエスの生前からの水の洗礼は その復活のあとも 弟子たちが聖霊降臨を受けてからのペテロの活動に見られるごとく 引き続き行なわれている〔(B-3)〕。

ただ 一点言うことができる。 このように約束の聖霊を受けたことというのは 水の洗礼にとっても まさしく重要であると。それ以前と以後とで その洗礼の内容は 違って来ていると考えられる。内容のちがいを明確に規定することは難しいかもしれない。

でも イエスの生前のときの水の洗礼たる内容は 復活後の水の洗礼の内容の中へ含まれていくようになったと言えるのではないか。大胆に言えば 聖霊降臨のあとでは イエスの生前の水による洗礼はもう要らなくなったのだと。(聖霊を受けた弟子たち自身が 変わってしまっているのだから 事実上 イエス生前の洗礼は その弟子たちも もはや施すことが出来ない。そしてその必要もない。)

したがって あとは 《洗礼》ということについて 基本的な事柄は  その内容として A群の聖句に表わされたところだと考えられる。

《水と火と血》の贖いとしての洗礼であり恵みであるもの およびその洗礼によって信仰が始まるとともにやがて言わば霊の身体の獲得であるといわれる神直視が得られるという《霊》の恵みであるもの。 

そうして これら《水と火と血》と《霊》とは 互いにすべて一致していると言われる。すなわちこのとき もし一言で言おうと思えば 《霊による洗礼》が いま問題となっている内容の核であると言えるし この簡潔な表現のなかに すべてが含まれると言っていいのではないか。──ここに 水による洗礼も キリストの授ける洗礼として 弟子やその後継者たちが執行するいわば儀式として おこなうよう指示されている。

おおよそ 以上のような見取り図になると思われる。

今後も 主の声に従っていきたい。