パウロとペテロ
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
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厳密には、異邦人との共卓とは異なるのかもしれませんが、
異邦人と共卓をすることを避けるようになったペテロ(ケパ)の姿勢は、
イエスの立場に反するのではないですか?
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☆ 《律法》の遵守あるいは厳守という問題については あいまいなままになっているところがあるかと まづ 思います。
姦淫の女が現場で捕まえられたら 石打ちの死刑だとあります。
▼ (レビ記/ 20章 10節) 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。
☆ ところが ヨハネ福音書(8:1-11)では 《あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい》というイエスの発言によって その刑をまぬかれた模様です。
姦淫ばかりの例を出してすみませんが 王のダヰデは 人の妻を横取りした上に その軍人の夫を戦地に遣って死なせた。ところが 言ってみれば お咎め無しです。
ですから 律法の遵守という問題については まだよく分からないと思っています。
その上でですが 律法は 基本的な内容については 守るべきものだと考えます。新約の時代になってもです。
それは けっきょくアブラハムが その長子のイサクを神への生贄としてささげるからであっても 人をころすことは よくないことではないかと確認したという問題が モーセの律法条文の書かれる以前にあったと考えます。
ひとは人をころさない。自分をも他人をも。という書かれざる心のうちの律法が――自然法というべきものとして―― アブラハムの信仰から得られた理論として 持たれていた。と見ます。そして このような基本内容は 成文法となった時代と制度のもとでも まもるべき信仰のあり方だと見ます。
この生命の尊厳といった基本内容とは別に 社会のナラワシや法律条文にかんしては 時代とともに変わり得るとも考えられますから 特別の遵守命令を受けているとは 見ません。
いのちのとうとさは けっきょく 存在の掛け替えの無さであり 具体的には 人それぞれの自由意志の尊重のことだと見ます。逆に言うと 意志が 人間存在の中軸となっていて これをないがしろにすることは 暴力――あらゆる暴力の初め――である。と捉えます。
この基礎内容は ナラワシにしても律法にしても 守るべき――オシエと言えば唯一のオシエたるべき――事柄であると捉えます。
隣人を愛するのは このように自分のおよび相手の意志をとうとぶということを基礎内容とすると捉えます。つまり隣人愛も 唯一のオシエと言えばそうですから。
○ 共卓
☆ は どうなんでしょう。同じユダヤ人のあいだであっても 罪びととのそれや あるいは 異邦人とのそれについて どう捉えればよいでしょう。
たぶんそれらは 《規制緩和》してもだいじょうぶだという了解は もうすでにイエス派の中ではみとめられていたのではないでしょうか。
しかも その了解どおりにじっさいに実行するか・実行できるかとなると――石打ちの死刑が その実行があいまいにされ得たのなら まして あたらしいナラワシへ進むことについては―― まだまだ あいまいなままにしていた。と 単純なかたちで 考えられて来ます。《理論》の問題ではなくなっているように見られます。
▼ (ルカ福音 5:38) 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。
◇ 《酒》が《律法》のたとえであるとするならば、 / 古き律法は捨てさるべきものなのではないですか?
☆ いまわざと変な用語を使うとしますと 《核心的内容》――いのちのとうとさ・自己のおよび相手の意志の尊重――にかかわる部分は 律法というオシエやキマリをも守る。それ以外は 人びとの考えに従い 取り決めあっていけばよい。
というかたちで 《あたらしいワインをあたらしい革袋に入れる》のがよいと考えます。
◇ わたしには、そもそも、異邦人、無割礼の者との共卓が問題になることの方が、問題なのでは、という思いがします。
☆ なのですが ふるい人びとは その考えに合わせてそれなりに そしてあたらしい人も 慣れとしてのクセからそれなりに 問題となるコトを つづけたりするものと思われます。
《過去の歴史を反省しない者》との共卓――止むを得ずでしょうか 第三者の家では避けずに そうしましたが――をこばみつづける人もいるようですから 理論の問題をすり抜けてのように 長引くことがあるのかも知れません。
その人のお父さんは 《米軍慰安婦の管理隊長》であったという記事(週刊誌の見出し)を見ました。
でも あたらしいワインを飲む意向だと思われ 未来志向なのだと察せられるのですが どうでしょうか。