caguirofie

哲学いろいろ

先験的(アプリオリ)という言葉は ややこしい。・・・

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Q&A のまとめ:

https://bragelone.hatenablog.com/entry/20110326/p2

 

 

1. 《やましさ反応》は――動悸がはげしくなり顔が赤らむ反応は―― われわれ人間の思考や意志やあるいは意識のいかんにかかわらず そのような経験行為に先立ってすでに どこからか推進力がはたらいて起こる現象です。

2. しばしばよからぬことを思ったり企んだりするときに起こる反応ですから おそらく《良心》によっておこされる《恥ぢ》という概念にかかわって起こるものと考えられます。

 

 


3. 良心は 天与のものです。それをめぐって思考することはありますが 人間が自分から持とうとして持ったものではないでしょう。ヒラメキという概念と現象も そうだと思われます。
(人びとの経験という情況証拠からの結論づけですが)。




4. ヤマシサ反応がこのように先験的であると言う場合と カントの認識についてのコペルニクス的転回説に言う純粋直観がアプリオリだという場合とは 同じではない。――と思われます。


☆ なおしつこく この問題です。




5. まづなお ヒラメキや良心そしてまたヤマシサ反応といった主題についてよかったら 次の図解を参照してください。

〇 《かみ と ひとたるわれ とのカカハリ》についての図解  

超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
  ↓       ↑             ↓   ↓
___________________________________
自然本性たるヒト: ↑             ↓   ↓
          ↑             ↓   ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
-----------------------------------
 [経験世界]                  ↓   ↓
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト: 直観   ↓
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス:ヤマシサ反応                             (恥)


☆ 【 +α(霊我)】は あくまで 神の側からのハタラキカケによるものです。そのような想定です。




6. 要するに 空間や時間といった世界をめぐる認識にあたっての座標 あるいは 因果関係といった世界の事象をめぐる認識の基本形式 これらは 経験に先立つ純粋直観として成り立っているものか? 

――この問いです。つまり いまここでは 前項の図解のどこにカントの言うアプリオリな純粋認識は 成り立っていて位置するのか? です。




7. いきなり結論を提出してみます。

世界の中におけるモノ〔たる対象〕について その空間的位置づけや時間過程におけるやはり位置づけは――つまり それとしての純粋認識は―― けっきょく 《考える思考の緑野や感じる感性の原野》における基礎的な世界認識としての枠組みや形式なのではないか?

8. なぜなら 対象たるモノについてその物自体は人間に知り得ないと想定するからには まして《非知なる非思考の庭〔なる神〕》とは 無縁であろうから。
(または 有縁か無縁かをどこまでも問わない)。

9. もっとも 一方で物自体は 対象たるモノからわれわれが触発を与えられるときその根拠が 物自体だと言う場合もあるようであり 他方で 神は扱わないとしつつ信仰には席を空けておくとも言っているようであり カントの神観がいかなるものか これまた さだかではないのかも知れないのですが。






10. 要するに 恥ぢやヤマシサ反応ないし良心が天与のものだとするならそう言うのが ふつうであるように 〔認識という経験行為でありつつその中にあっても人間の意志にかかわりのなくはたらくとされる〕純粋直観について 〔ヒラメキのごとくして〕天与のものならそう言えばよい。

11. そして いやあくまで人間わざであるとするなら あいまいなままに放っておかずにはっきりとそう言って説明すればよい。

つくづく ややこしい。



12. しかも問題は その先にある。

要するに いづれの可能性の場合にも 純粋認識をめぐってそのアプリオリ性について 人間の・何にも優先されるようなかたちの積極的な主体性を根拠づけるものではない。――これであると思われます。


13. 天与のものであるなら 人間とその認識行為は なお経験的で限りのある相対的なものであって その人間の自然本性が天恵をしのぐということは言えない。

14. 思考の緑野や感性の原野において起きていることだとすれば そこには 直観ゆえにヒラメキとしての天恵とそしてそれを享(う)ける人間の側の意志行為とがある ふたつの側面がある と言うのであって 

意志行為としての人間の認識が 何ものにも優先されそこに積極的な主体性と自由とを見るのだと言って 手放しで完全にわれら人間がこの認識行為をわが物なのだとする言われはない。


15. 《コペルニクス的転回》は 成ったとは言えない。成ったと断言するのは きわめてミスリーディングなのではないだろうか?




どうでしょう。

 

 

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    趣旨説明をおぎないます。

    空間というのは いまここにいるというだけで前後にいる人との隔たりは感じていま
    す。また腹が減るなら そこに時間が流れたとも感じます。

    それを認識するという経験に先立って 身と心とに生まれつきそなわった感覚と悟性
    (理解力)とで 時空間を感じ取ります。
    ――これを アプリオリと言うのか?

    カントの説のごとく仮りにそう言うとしても そのことによって 認識をめぐるコペ
    ルニクス的転回が成ったとは言えない。

    なぜなら。たとえば男性器の勃起を例に採ろう。これも 意志をさだめるといった意
    識経験に先立って あたかも自分とは別の何らかのチカラで現象が起きている。つま
    り 先験的な要素をともなった経験事象である。

    だがもしこの先験的な作用を アプリオリな純粋直観の事例だと言うとしても 何も
    天動説から地動説に転回したものではない。認識論の中身を変える必要はないのだ。