caguirofie

哲学いろいろ

カントっていったい何を――その理性信仰にしても――考えてるんだろうかね。

1. 次の文章を取り上げて問います。

2. ▲ (I.カント:理性信仰について) ~~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) すなわち(☆ その文脈を省きます) 世界において可能な最高善を君の
究極目的とせよという命題は 

 

(い) 道徳法則そのものによって導入されるような [それにもかかわらず こ
れにより実践理性が道徳法則を超えて拡大されるような] アプリオリな総合命題
なのであって

(う) そのような拡大が可能になるのは あらゆる行為にたいして法則以外にも
さらに目的を考えざるをえないという人間の自然的性質に法則が関係づけられるこ
とによってであり

(え) (このような自然的性質のゆえに人間は経験の対象となる)

(お) その命題の方は経験一般において 自由な選択意志の規定根拠を認識する
ためのアプリオリな原理をふくむわけで 

(か) それも 規定根拠の認識は道徳性のさまざまな結果を目的の形で明示する
ので この認識が世界内の原因性としての人倫性の概念に 客観的な [とはいえ
実践的にすぎない]実在性を与えるかぎりで アプリオリな原理をふくむわけで 

(き) このことによってのみ その命題は(理論的でしかも総合的なアプリオリ
な命題と同じように)可能になるのである。

 



(く) ――ところでしかし 道徳法則のこのうえなく厳格な遵守が(目的として
の)最高善を招来する原因だと考えられるべきだとしても 幸福にふさわしいこと
に一致するように 世界において幸福を引き起こすには 人間の能力だけでは十分
ではないから

(け) そうなるように配慮する世界支配者として 全能の道徳的存在者が想定さ
れねばならないのである。

(こ) すなわち道徳は必然的に宗教にいたるということである。

(『たんなる理性の限界内の宗教』 第一版序文 二つ目の原注 北岡武司訳
2000 )
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3. いったい何を言ってんだろうかね。すべては 手前のあたまの中で考えた思
惟であるに過ぎない。ではないか。

4. 《世界支配者》ったって 自分〔たち〕が想像(創造?)した観念でしかな
い。ではないか? タコツボ節ではないか?

5. 道徳も法則も シュウキョウも 最高善も実践理性(≒意志?)も アポス
テリオリなら言うに及ばず いかにアプリオリな原理だと言ったとしても すべて
は 経験世界における人間の成すこと成さないことであるに過ぎない。

6. ただ自然本性(《自然的性質》)にもとづき 《自由な選択意志》を行使し
身のまわりには何がしかの人倫性を築き それぞれ己れの正負の仕合わせの中に幸
福をも共に享受するといった人生と世界史であるよりほかないではないか。

7. もし《世界支配者》があるなら それは人間と経験世界を超えたところにこ
そ想定するしかないではないか。何を分かったように言っているのか。

8. 《目的》は ピンからキリまであると言えばある。けれども ピンのそれと
しても 相対的な限りある・かつ移ろいゆかざるを得ない内容でしかない。

9. シュウキョウや道徳が その無常性を超えられるとでも思っているのか?
人間のチカラで うまく行くとでも?

10. タコツボ節からの総合的な弁証法的なコペルニクス的転回(または無転回)
をのぞまなくてはならない。のではないか?

11. ▼ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~

無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)

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★ 或る回答

 

カントなら「観念の意味(内容?)」を考えていたんでしょう。

 

 

☆ コメント

ということは 独り善がりのタコツボ節に終わる思想でしかない。
――のではないでしょうか?

ご回答をありがとうございます。


★ 「観念の意味(内容?)」
☆ も《観念》ですよね? つまり:

☆☆ (趣旨説明欄) ~~~
5. 道徳も法則も シュウキョウも 最高善も実践理性(≒意志?)も アポス
テリオリなら言うに及ばず いかにアプリオリな原理だと言ったとしても すべて
は 経験世界における人間の成すこと成さないことであるに過ぎない。
~~~~

☆ というように――さらに《世界支配者》をもふくめて――カントの言っている
ことは 観念尽くめです。




その《観念》の意味(内容)が もしたとえば《超越論的な自由――つまり この
経験世界における因果性を超えるような人間の自由な意志行為――》であるとした
場合 その場合も まづそれは 観念なんです。



もし いやいや だからこそ信仰が問題なのだと言うとするなら それなら――信
仰は ナゾの何ものかについて《かみ》なら神としてそのシルシ(名)を いかに
むなしくても 無条件に無根拠にてわが心に受け容れることであるのだから―― 
いま扱っているそれらの《観念》を超えて そうしたところの場(ないしチカラ)
を まづ先に想定しておかねばならない。

仮説法(アブダクション)による必要があります。




▼ 信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかった
(たしか『純粋理性批判』の序文でしたか)
☆ とかと言っているようですが それは 明らかな間違いなんです。

信仰は 人知を超えるナゾの何ものかを受け容れることであるゆえ 《知を廃棄す
る》も何も・あるいは思考を停止するだのどうのこうのとは 何の関係もないので
す。

人間の有する知識も知性も思考をも超えているのだから――それら観念のすべてを
超えているのだから―― 何もする必要がないはずなんです。信仰は 人知の関数
ではない。

つまり 吾人は須らく思想たる観念ないし観念の思想たるタコツボ節から速やかに
厳かに自由にならざるべからず。――となりましょう。

《おごそかに》とは 《自由になる》ための人知ないしその努力からも自由になる
ことが求められていると受け取らざるを得ないからです。自由になるのであって 
廃棄することではないでしょう。