caguirofie

哲学いろいろ


Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

不可知を 未知と分けて――哲学なら――用いなければいけない

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9747768.html

☆ №74&№75のお礼欄


1.☆☆ 不可知なる最終的原因とは 何か? 

★ どの段階で異議が発生するのかお知らせください。
☆ そのことをお伝えするためにも 全体観が有効だと考えました。


★ この1〜3に関しては、特に異議は無いということでしょうか?
☆ その論理構成として 個々のことがらを論点とするよりは 全体観に立って
しかも 別の視点を導入したほうがよいのではないかと。


(鄯)★ 人間存在の最終原因は、(不可知としているのですから)経験事象で
はありません。
☆ あらためて確認できました。重要だと思います。


★ 〔《1.因無くして果は生じない》で始まる説明式〕《1〜3》は、あくま
で論理です。
☆ 論理も 経験事象です。論理として人知が及んでいます。


〔《イデア》というのは 純粋理性だとか純粋概念だと見られていますが 元は
《見えたるもの》です。v の文字を語頭におぎなえば ヴィデオにつながります。


つまり プラトンの神は そのようなかたちで 経験事象と連続しています。


論理や観念だけだとしても 人知が及んでおり 人知の及ばぬところもある(ま
たは そのイデアの世界にかつていたことをこの地上に来てからは 忘れている)
というかたちで 人知という枠組みの中におさまっています。〕


さて 無限をどう扱うか? 発起人としては大きな収穫がありました。


☆☆ 《無限》は 二で割っても三で割っても 答えは 半分や三分の一にはな
らず もとの無限のままである。
★ これは、次のようなことの言い換えなのかな、という気もします。


(鄱)★ 最終原因は、そこに行き着くまでの過程において、何度、原因の判明
を繰り返したとしても、その過程の段階で最終原因としての答えが出ることはな
く、もとの最終原因のままである。


☆ 最終原因をナゾと言いかえますが:

(鄴) 《ナゾは 人間がいかに・どれだけその能力を総動員して研究し考え尽
くしたとしても つねにナゾのままにとどまり 人間や経験事象からの影響を受
けない》


つまり 早い話が こうなりませんか?:
(鄽) ナゾは 人間とのあいだに絶対のへだたりがある。
(酈) ナゾは 人間が知ろうとしても 知り得るかは分からないし 知り得な
いかも分からない。つまり 非知である。



☆ ここに もう一点 つけ添えます。:
(酛) ナゾは 《1.因無くして果は生じない》なる因果律を難なく超えてい
る。因果関係から自由である。


(醃) ナゾは 事実としての因果関係から自由であり 事実をめぐる法則とし
ての因果律(つまり 論理)による影響を受けない。


☆ これらの命題からは さらにこう考えられまいか。:

(醞) 無限で絶対なるナゾは 因果関係の中に住んでいる人間を見て 少しは
友だちにでも成ってやろうかといった茶目っ気を起こしたんぢゃないだろうか。


(醬) 必然の王国とも呼ばれる経験事象なる世界。つまり あやまちが起きて
その縁起(因果関係)がシガラミともなって人の自由意志を取り巻く世界。そこ
に そうっと小さな風穴を開けてやろうかなと。


(醱) 《霊:ルーアハ;プネウマ;スピリトゥス》とは もともと《息》であ
り《風》のことである。つまり ナゾなる神の・人間への贈り物は この霊であ
る。


(ⅺ) 霊霊一如なる信仰(神とわれとのカカハリ)が 生まれつき潜在するチ
カラとして人にそなわり いつの時か 人はそれに気づく。と。


(ⅻ) 連続説は (鄽)の《絶対のへだたり(非連続)》を認めた上で なお
神なるナゾからのハタラキカケを享けた人間が 霊霊一如にあって《神と直接に
つながっている》と仮説する命題である。


(x鄴) ハタラキカケが 直接のつながりであるとしたら 神なるナゾは あた
かも(つまり 経験事象にたとえて)《原因》であるとも仮説したい。


(x鄽) つまり《最終原因》というのは ひとつの派生命題として成っている。


(x酈) かくて 《人間存在の最終原因》について こう語られる。:
▲ (ヨハネによる福音 1:13) それらの人は、血すじによらず、肉の欲によら
ず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。


(x酛) ちなみに非連続説では この文字(命題)は あくまで補助線(依り代・
指先を指し示す指)であると言い張る。


(x醃) 最終原因は 不可知というよりは 非知なるナゾについての《仮構知》
なり。