caguirofie

哲学いろいろ

カントールの対角線論法への疑問

 

* bragelone

多分ですが:
▲ 従って、全単射a:N→(0,1]が存在する。
☆ というとき その内実は 限りなくその全単射の確認を続けなくてはならないといった事情を抱えているのだと思います。

ということは:
▲ 一方、各自然数nに対してa(n)はbとは小数第n位が等しくないのでa(n)≠bである。
☆ という結果を得たとするとき そうは言っても そこでその結果が 最終的な確立であるとは言えないのだと見られます。

つねに a(n)≠b である結果を さらに・さらに得ることが出来るまで 探索をつづけなくてはならない。

そして 永遠にその探索は終わらない。

つまり 背理が起きたかどうかは ついぞ確認し得ない。
探索が終わったと決めてよいなら 背理が起きている。

のではないかと思います。

 

 

 



探索が終わったと決めてよいというのは それも仮定なのだと見られます。

つまり 仮定したから 証明し得たんだと言っているように見られます。自作自演であるように。


近似値としては 仮定が 確からしいという推量を提出しているのだと。






あるいは:
▲ 1つの無限小数   
b・・・(入力できません)
が定まる。
☆ と仮定したとき その定まり方は その確定を限りなくつづけなくてはならない事情をかかえている。

したがって:
▲ 各自然数nに対してa(n)はbとは小数第n位が等しくない
☆ ということの確定も 限りなくその確認を続けなくてはならない事情がある。

偶数に対して奇数 奇数に対して偶数に置き換えるとしたのだから 必ず異なった数になると《仮定した》ことが確定した・・・と勝手に決めている・・・のではないか?



ひょっとしたら もし近似値でコトを決めてよいのなら 小数点以下の数字が 限りなく続いて行ったときには 
△ 各自然数nに対してa(n)はbとは小数第n位が等し・い
☆ という仮定ができるかも知れない。

――とは成りませんか? 
by bragelone (2018-11-04 03:55) 

bragelone

反論(疑問)の第三。

奇数を偶数に 偶数を奇数に取り換えてつくった b という数は わざわざそんな操作をしなくても すでに並べ終えたというリストの中に じつは あったのだ・・・ということになりはしませんか? 
by bragelone (2018-11-04 04:18) 

bragelone

お早うございます。


【Q:カントール対角線論法は 間違いではないですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10805328.html

☆ その回答№4をごらんください。

ごろつき仮面お多福となづけた御仁です。plapota 氏がかつて わいわい言っていたやからです。

プリゴジンの弟子だそうです。(わたしと同学年らしい)。

どう思いますか? 

▽ ヰキぺ:山越富夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B6%8A%E5%AF%8C%E5%A4%AB

▽ texas-no-kumagusuのブログ
https://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/ 
by bragelone (2018-11-04 08:35) 

nemurineko

こんにちは。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
多分ですが:
▲ 従って、全単射a:N→(0,1]が存在する。
☆ というとき その内実は 限りなくその全単射の確認を続けなくてはならないといった事情を抱えているのだと思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
無限集合の間の写像ですから、一つずつ取り出し全てのものを調べるということは有限時間内にできない。
これは事実。

ところで、A={xは実数|0<x≦1}、B={yは実数|0<y≦2}とし、f(x)=2xで写像を定めると、これはAからBへの全単射になります。AとBは無限集合ですから、AからBへの個々のケース全てについて調べることはできない。
そこで次のような証明で満足する。

単射であることの略証】
x₁、x₂∈Aであるとする。
f(x₁)=f(x₂) ⇔ 2x₁=2x₂ ⇔ x₁=x₂
(略証終)

全射であることの略証】
y∈B、y=2xとする。xについて解くとx=y/2。
0<y≦2だから、0<x≦1。したがって、x∈A。
(略証終)

したがって、fは全単射である。

数学ではこれで良しとします。
数学や論理学の規則(定義や公理、これらに矛盾しない仮定、そしてこれらから帰結される定理など)にしたがって、こういうふうに存在性だけを示せばいいんでさぁ〜。

話を元に戻して、
「従って、全単射a:N→(0,1]が存在する」ですが、これは自然数全体の集合Nと(0,1]の濃度が等しい、すなわち、実数全体の集合の無限部分集合(0,1]が可算集合であるということを言い換えたもの。
これは仮定そのものなので、確認の必要はありません。


☆つまり 仮定したから 証明し得たんだと言っているように見られます。自作自演であるように。
◇自作自演ですよ。
そして、全称命題や存在命題ついての論理(法則)そのものについては、数学ではなく論理学の問題で数学はあずかり知らぬこと。
だから、この件については論理学者に訊いてくれと逃げる(^^ゞ
数学は論理学を利用する立場ですから(笑)。

物理をやっている人が「これは物理ではなく数学の問題なので数学をやっている人に訊いてくれ」と言うのと同じように、論理学をやっている人に下駄を預ける。

☆近似値としては 仮定が 確からしいという推量を提出しているのだと。
◇近似値ではなく、無限小数の形(実はこれ極限値)で表されるその数自身ですよ。
たとえば、有理数の1/3は
 1/3 = 0.333・・・
で表現されますが、この右辺は数そのものではなくて
 0.3333・・・=0.3 + 0.03 + 0.003 + ・・・・
という無限級数極限値のことで、この無限級数が1/3に収束するので、1/3=0.333・・・と表しているんです。
この時点で無限の話が出てくるので、brageloneさんの反論と同じような次のツッコミを入れることができるんです。
 0.3 + 0.03 + 0.003 + ・・・・
「お前、この・・・で表される全てを足して、それが1/3になることを確かめたのか」ってね。
そして、これを証明するには、最終的には公理(例えばアルキメデスの公理など)、つまり、その真偽が確かめられない(無限に関する)仮定が必要になるんでさぁ〜。

証明ですから、「確か(らしい)という推量」ですよ。
そして、議論の出発点になる前提を相手に認めてもらえなければ、その主張はただの戯言(たわごと)になってしまいます。
だから、「(こうした定義や前提を)認めるかどうか」だと言ったじゃないですか。


by nemurineko (2018-11-04 14:56) 

bragelone

ここで折れたら マムシが泣きます。


▲ bは明らからに半閉区間(0,1]の元であり、写像a:N→(0,1]が全射であるから、b=a(n)となる自然数nがあるはずである。
☆ これが ふつうのお話です。

次は ふつうから逸脱しているのでは?

▲ 一方、各自然数nに対してa(n)はbとは小数第n位が等しくないのでa(n)≠bである。
☆ 《等しくない》ように作ったのですから そんなことを言われても困ります。

けれども 並べ終えたリストの中に 必ずa(n)と小数第n位が等しい奥の手の b が入っているはずなんです。

あたらしく作った数が どうしてリストの中に入っていないということがあるでしょうか。

《あたらしく》とか《作った》ということ自体が おかしい。すべてリストアップしているという仮定を置いたのなら。


▲ 実数全体の集合Rは可算集合でない
☆ とすでに初めに決めてしまって こう決めたから こう決まっていると言っているに過ぎない。とさえ思えて来ます。 
by bragelone (2018-11-04 16:10) 

nemurineko

こんばんは。

仮定:a:N→(0,1]という全単射が存在する。
  ・
  ・
  ・
こうして作られたbは0<b≦1だから、bは半区間(0,1]の元である。
また、仮定よりa:N→(0,1]は(全単射だから)全射
したがって、b=a(n)となる自然数がnがある。
b=a(n)となるものがリスト中にあるはずだけれど、bの作り方からリスト中にあるどれとも一致しない。
これは矛盾。
よって、a:N→(0,1]という全単射は存在しない。すなわち、(0,1]は可算集合ではない。

この論理の流れにどこかおかしなところがありますか。

(0,1]を可算集合と仮定すると、リストにあるものがリストにないことになってしまう、という話であって、リストに漏れているbが(0,1]にある実数であるということを否定しているわけじゃ〜ないんです。
まっ、(0,1]は可算集合ではないので、そもそもこのリストを作ることもできませんし、まして、このリストからbを作ることもできませんけれど。
こんなbは「おとぎの国」である「数学の世界」においても存在しえないんだから、存在し得ないbについてあれこれ議論してもしょうがないと思うんですよね〜。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
▲ 実数全体の集合Rは可算集合でない
☆ とすでに初めに決めてしまって こう決めたから こう決まっていると言っているに過ぎない。とさえ思えて来ます。 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そうですよ。そうなるように集合論(の濃度)を作ったんですから。
無限集合を含む集合論が、常識からするとどんなに奇妙に見えても、この集合論の土俵の上にあがってそのルールにしたがって戦おうとしたら、その時点で負けは必定。
そういうふうに集合論は作ってあるんですから。
カントール対角線論法に乗っちゃった時点でもう負けなんですよ。
だから、哲学側はカントール対角線論法に乗っちゃいけないんです。
哲学側はより根源的な集合論の諸前提のところを議論すべきだと思います。


by nemurineko (2018-11-04 19:51) 

bragelone

どうもありがとうございます。

どうもしかるべき終着駅にたどり着くという気遣いは なかったんですか。

かみ合っていない。噛み合わせるような議論ではなかったんですか。



ただ その論法を用いて ゲーデル不完全性定理が成り立っているとか何とか。
そんな理論の上に なお理論が立つんですか。

数学っておそろしい思考の世界ですね。

文系としてまなぶ数学は おとなしい。まともですよね。



しかし わたし自身だけの話をしてよければ ここまでの解明がなければ 気が済まなかったとは言えるでしょうね。


いやはや 何と言う幕切れでしょうか。


どうもお世話様でした。謝謝。 
by bragelone (2018-11-04 20:48) 

nemurineko

19世紀くらいの数学、特に、微分積分などの解析学の範囲にとどまるならば、無限は一つであっても構わないんです。
現にカントールが「無限にはいくつかの種類がある」なんてことを言い出すまで、数学者の多くは無限は一種類であると信じ、この考えに基づいて数学を気づいてきた。そして、それほど、困ることはなかった。

でも、実数の全体の集合Rの濃度は自然数の全体の集合Nの濃度よりも大きいという考えを受け入れると、無限は一種類としたときに解けない問題が解けてしまうんです。
たとえば、19世紀の積分論では積分できないとされた関数が積分可能になったりするんです。数学で扱える分野が格段に広がるんです。

「だったら、無限は一つしかないというこれまでの考えを捨てればいい」と考えるのは自然な流れなんじゃないですか。

ギリシア時代の数学には0という概念はなかった。
それまでなかった0という概念を新たに取り入れることによって数学で扱える範囲が増えた。
あらたに負の数を導入することによってさらに数学で扱える範囲が広がった。
さらに虚数を導入することによってもっと数学で扱える範囲が広がった。

虚数は英語でImaginary Numberです。対して、実数はReal Number。この名前からわかるように、虚数は実在する数ではなく空想上の数です。それが今では誰も虚数の存在を疑わないじゃないですか。

実数無限というのは全くのフィクションかもしれないけれど、これを導入することによって扱える範囲が広がるだけではなく、より統一的で包括的な理論が構築されるのならば、とりあえず、それを認めてもいいと思うんですよ。
幸いなことに、とりあえず、矛盾しない安全な体系にはなっていますし。

それじゃ〜ダメなんですか。 
by nemurineko (2018-11-04 21:45) 

bragelone

いや いえ。もう恐れ入っています。

ゼロや虚数の導入は 定義をしてそれらを利活用する。

だったら:
◇ 「だったら、無限は一つしかないというこれまでの考えを捨てればいい」
☆ というので 定義をして道具として使うようになればよい。

導入しますよと言って すすめて行けばよい。そのときわざわざ《証明をする》というおまけがついているので 分かりづらかったように思います。


でも:
◇ 幸いなことに、とりあえず、矛盾しない安全な体系にはなっていますし。
☆ なんですか。いやはや。祝福すべきなんでしょうね。

そして:
◇◇ 哲学側はより根源的な集合論の諸前提のところを議論すべきだと思います。
☆ という道についても示してもらいましたし。

双方 おめでとうございます。というような感じですね。 
by bragelone (2018-11-04 22:25) 

ddtddtddt

対角線論法は異常か?]
 ddt^3です。色々あってタイミングを逃し、今さら次郎発言です(^^;)。

 ほぼここまでで話は出尽くしてる気はするのですが、自分はプロゲラさんとは別の方向で対角線論法に悩んだおぼえがあります。しかし具体的な悩みどころはいっしょでした。やっぱり対角線に沿って作った、リストに載ってないと結論された数の検証手段を考えました。
 リストにある数をa,対角線に沿って作った数をbとします。a,bを無限小数展開した場合、aをどのように選んでも、aとは違う小数以下桁数が、少なくとも1つbにはあるはずだ、というのが対角線論法の根拠です。しかし無限小数の桁数は無限なので、この手続きには終わりがありません。なので、どこまで行っても小数の桁の数字は一致し続けるという事も、現実にあり得ます。
 ただし人間は有限の事しか出来ないので、n桁で比較が終了したら、その先に違う桁があるのだと言われるだけです。ここから対角線論法を認めない人たちは、bを先頭にして数え直したらどうなのだと言います。認める人たちはもう一回対角線論法で別のb'を作ります。b'を先頭にしたら・・・もう一回対角線論法で別のb''を作り・・・、どうどう巡りです。
 認めない派は目論見はたぶんこうです。全単射の定義に従えば、例えば自然数と偶数全体が同数になります。という事は、対角線論法ではaの並べ方が悪かったのだと。だからbを先頭にして、b'を先頭にして、b''を先頭にして・・・と尽くしていけば、いつかは全部並ぶと。
 これに対して認める派は言います。そもそも対角線論法では並べ方に何の制限も設けてないのだから、どのような並べ方をしてもリスト外の小数が存在する事を、それは示してるのだと。
 そしてこの話にも具体的な決着はありません。どうどう巡りも有限で終わるからです。それで最後に数学の先生は高圧的に言います。例えば遠山啓は、

  「bを先頭にするは、将棋の待ったと同じなので不可!」と(^^;)。

 じつはここまでで「どこまでも続く」を意味する「・・・」を2回使いました。けっきょく誰も観る事の出来ない「・・・」の中で、何が起こってるかですよね?。認める派も認めない派も、じつは「・・・」の中身を予想できるものとして扱っている、と思えませんか?。誰も観れないのに。
 その理由は、「どこまでも続く」とは「同じ事がどこまでも続く」だからです。つまり、「誰も観れない無限を相手にしているんだけれど、その有限部分さえ見れば結論を出せる」です。こういう事情から自分は、無限集合論とは有限理論の無限への外挿だと思っています。なので、現行の集合論が矛盾しているという結果がどこかで出ても、個人的には余り驚きません。だって外挿は外挿で、保証はないんですから。逆に言うと、考え方次第で色々な無限があっても良い気がします。
 じっさい実数全体の個数を可算無限にするような集合論も作れたはずです。そのとき対角線論法で得られたbはいったいどうなるんだろう?。それは実数でない事になるのだけれど、無限小数だよね。わかんねぇ~や(^^;)。


 ここで最大公約数的に暗黙に認められているものに「・・・の公理」(?)があると思われます。

(1) 暗黙の前提
 自然数の列、n=1,2,・・・に現れる「・・・」によって、自然数全体を集めたものとみなせる。すなわち「・・・」による省略記法は、可能無限としての可算無限までは有効(直観により(^^;))。

 自然数全体とは任意有限全部の事です。(1)は少なくとも無限の有限部分に関しては、「・・・」と同じ事が続くとやって良いと。ここから、次の暗黙の要請が導かれます。

(2) 暗黙の要請
 無限に関する結果は、必ず任意有限でも成り立たなければならない。何故なら「・・・」と同じ事が続くはずだから。この要請により無限集合論は、ある意味非常に注意深く作られている事になります。確認できる有限に対しては、常に正しい結果を与えるという要請なので。だからこそいちおう心配なく無限集合論を、普通の数学に適用できる訳です。矛盾が起こったとしてもそれは、人外魔境。

 (1)(2)より、無限に関する証明の安全策は、次のようになります。

(3) 無限に関する証明の安全策
 命題Aが任意有限で成立する事を証明し(これは具体的に検証可能)、n→∞の極限を取って(「・・・」で)それを∞に対する結果とする。これで少なくとも可算無限までは行ける。

 という訳で、対角線論法を任意有限で検証してみます。番号i=1,2,・・・で番号付けされたaのj桁目(有限桁)の数字をa(ij)で表します。

n=1:
 1 → 0.a(11)
 b=0.b(1)。ただしb(1)≠a(11)とする。小数以下1桁の実数の個数は、少なくとも1より1個多い。

n=2:
 1 → 0.a(11)a(12)
 2 → 0.a(21)a(22)
 b=0.b(1)b(2)。ただしb(1)≠a(11)かつb(2)≠a(22)とする。小数以下2桁の実数の個数は、少なくとも2より1個多い。

 nが何であっても同じことが出来るのは明らかなので、

n=k:
 1 → 0.a(11)a(12)
 2 → 0.a(21)a(22)
  ・
  ・
  ・
 k → 0.a(k1)a(k2)・・・a(kk)
 b=0.b(1)b(2)・・・b(k)。ただしb(1)≠a(11)かつb(2)≠a(22)かつ・・・かつb(k)≠a(kk)とする。小数以下k桁の実数の個数は、少なくともkより1個多い。

n→∞(可算無限):
 1 → 0.a(11)a(12)
 2 → 0.a(21)a(22)
  ・
  ・
  ・
 b=0.b(1)b(2)・・・。ただしb(1)≠a(11)かつb(2)≠a(22)かつ・・・とする。小数以下可算無限桁の実数の個数は、少なくとも可算無限より1個多い。

 ここでn→∞とした時に、可能無限としての可算無限は実無限に化けたのかも知れませんが、ともあれ有限の外挿を無限まで行ったとみなせます。「小数以下可算無限桁の実数とは、0≦a<1となる実数全体の事だから、実数の個数は可算無限でない」となります(^^;)。

 ここまで色々と怪しい事を書きましたが、最後に極めつけに怪しいのを書きます。可算無限はよくヘブライ文字アレフで表されますが、それは環境依存文字なのでαで代用します。どこかで述べたと思うのですが、0≦a<1を満たす実数を十進展開した場合、その個数は10^αですが、現行集合論を信じると10^α=2^αになります。
 情報理論によると2^n(n:有限)の個体を含む系の情報量はnです。常にn<2^nなので、情報量nの系の個体数がnという事はあり得ません。そうするとαは実数全体の情報量です。連続無限の情報量は可算無限だったぁ~となります(← いいのかしら?)。よって連続無限は可算無限より、真に大きい無限でなければならないと・・・。自分の感覚では、これで納得できます。
 こういう数学ってないのだろうか?と探した事がありますが、現状では影も形もありません(^^;)。 
by ddtddtddt (2018-11-06 15:21) 

bragelone

★ ここでn→∞とした時に、可能無限としての可算無限は実無限に化けたのかも知れませんが
☆ この判断が もっともピンと来ます。

★ ・・・そうするとαは実数全体の情報量です。連続無限の情報量は可算無限だったぁ~となります(← いいのかしら?)。
☆ 《全体として(ひとつのまとまった量と見なして)》捉えるなら
 《可算》量である。となるのだと思います。

つまり 《実無限》としてと言いますか。でも《実の・可算の 〈無限〉》であります。 
by bragelone (2018-11-06 15:53)