信じる
つまり わたしはそこで 《信じる》とは 《神またはその一定の名を心に受け容れること》だと定義します。
そのとき《こばむ》という意志行為もあって 《非知ないし絶対》に対しては 《無い神を受け容れたこと》になると捉えます。
これだけで 信仰は 経験科学の扱い得る対象になると考えます。
あるいは 人は或る日或る時 どの言語にも《神》という言葉があるからには これをどう扱うかについて自分で決めるときが来るのではないか。
しかも この判断ないし意志決定は おのれに固有のものである。神とわれとの――しかも非経験と経験との――関係であって ほかの人間の入り込む余地のない《時》に属する。
相手(対象)である神は 《神ないしその一定の名》が シルシとして代理するかたちを採る。経験物が 非経験の場を代理する。
というかたちにまで 判断ないし選択のお膳立てが出来たならば 人間は すべからく《信じる動物》と成る。
信じるという事態については 部分や要素の問題ではなく シルシの問題だと捉えます。その上で
★ これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
☆ となると考えますが シルシ・比喩あるいは補助線は 仮りの代理物でありつつ 神なら神のやはり全体を指し示すかたちを採っているかと思います。
要するに この世の中に 《非経験の場》は 経験的にはあり得ないことですが それを《非知なるナゾ》と言ってシルシづけたものは われわれ人間との関係を一人ひとりに迫っている。もともと 関係は出来ている。
けれども その関係は われわれ人間が気づき意識にのぼらせ なるほど受け容れざるを得ないと観念することになる。わづかに その《受け容れ・つまり信じる》には 拒絶するという選択もあると知る。
こういったことに すでに生まれたときからその自然本性にとっての条件として 成っているものと思われます。
この樅の木としての《信じる動物》にオシへなどのカザリをつけて余分なお祭り騒ぎをするのは シュウキョウです。