信論
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ
1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。
2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。
3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。
○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ
【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html
○ 《非知》とは 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
経験
可知
既知
未知
不可知(知り得ないと知った)
非経験
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭) 〜〜〜〜〜
非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
________________________
思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
________________________
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。
A. ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我
B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
C. ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
D. クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
E. (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
F. 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
4−1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。
空海
◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、
かもしれません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 言いかえるなら 論理学等の寄与は 言わば公共財として遺すものだという見方を持つからです。誰がおこなってもよいのですし そういう性質の学問的な営為であるかと思うからです。
つまり 信仰は・そしてあるいは神学は 普遍的な内容を目指すということになると いささかその人ないしその弟子や同志たちの努力に負うところが大きいと思うからです。
◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ですが、ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』には、
「《信》とは、心の清らかさである」
とありますので、この言葉に尽きるのかも知れませんね。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 《自性清浄心》は それでも《ブッダター》の問題だと考えられます。清いこと・清らかさというのは どの民俗的な信仰においても言うことだと思われ それを《信》の定義に用いることは その信ということが 経験存在である人間にとってどういう仕組みになっているかが明らかにされてやっと腑に落ちるのではないか。こうも考えるからです。
◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして、空海ならば、
《秘密》というキーワードで説明したりします。
《衆生秘密》(まぁ、《バカの壁》みたいなもの。《バカの壁》があるから、秘密に見える!!)と《如来秘密》(概念知や分別的な認識・《バカの壁》では決して解き明かせない、非思考・非経験の世界)で説明します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ えっとですね。即身成仏は 《さとり》が何であるかの規定・確認のあとにその効力を発揮します。即得往生と 親鸞は 言いかえています。つまり 往生や成仏とは何かが先に来なければならないと。
あるいは 親鸞にしても たとえば《悪人正機》なるヒラメキを得てそれについて思索を展開している段階は まだまだ中途半端な状態であった――つまり《信》をめぐってです――と考えられます。善悪の彼岸に やがて到ります。
とうよりは 先ほどの即得往生のほうが 優先されるべき命題です。そのような彼岸を取り上げているのは まだ善悪についてどうにかして結着をつけようというように弄っている段階です。
つまりそうではなく・その段階をとおり越えて すでに《義無きをもって義とす》という境地に到ります。
これが 非経験の場であり 非知なる知(自覚)であり 非思考の庭としての《信》であるとさとります。
こういった信学ないし信仰論が明らかになって――乱暴を省みずに述べるならば―― 《秘密》といった鍵語がその威力を持つのだと思うからです。
それに 余計なことを添えるならば 《如来と衆生》という区別があるとするなら それは 先ほどの善悪論とあたかも同じような趣きにおいて 途中半端な問い求めの段階にある。こうも思われて来るからです。
区別を超えているかも分かりませんが それはおそらく知性においてなのだろうと見られます。《信》を 言おうとしていても まだみづからの内においてその確立としての普請は済んでいないように見られます。
《主(神)は 人びとの罪をもう覚えていない。人びとも主を知れと言って おしえることはなくなる》という《義無き状態としての義》。
◇ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
あるいは、
「夫(そ)れ仏法遥かなるにあらず。心中にしてすなわち近し。真如、外(ほか)にあらず。身を棄てて何(いづく)んか求めん。迷悟、我にあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、即(すなわち)到(いた)る。明暗他にあらざれば、すなわち、信修すればたちまちに證(しょうす)。」
迷→《衆生秘密》
悟り→《如来秘密》
に、おそらく、対応しているのでしょうね。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
☆ 設計図としては 書けていましょうか どうでしょうか。というように 親鸞目線で見ることは いやな感じをあたえましょうが 学問として妥当であるように考えます。すでにこのように《決めつけ》ています。むろん 果たしてどうでしょうかというのが この問いです。