ニーチェはなんで、古代インド思想に傾倒していたんですか?
No.3
1. 次に述べるようなかたちで 阿呆だからです。
2. クリスチアニズムについての誤解があったこと。
2-1. つまり 聖書の示す信仰を オシへとして・守らねばならない倫理規範として捉えて窮屈な道徳にしてしまっていた世間のナラハシを そのままあたかも敵対すべき思想だと見なした。
2-2. 聖書は 《文字は人をころし 霊は生かす》(コリント後書 3:6 )と言う。文字ないし言葉で規定したことの文字通りの順守は 人間が成し得るものではないし そのように生きることもないのだと。なぜなら 思考や感性を保ったまま しかしながらそれらを超えて非思考として動態する信仰によるのだから。
3. 古代インド思想についてやはり誤解があったこと。
3-1. たとえば梵我一如としてその信仰を説明するところを 見誤った。つまり そのブラフマー神(梵)にせよアートマン(我:霊我)にせよそれらのオシへは絶対性を表わすけれどもなお曖昧模糊としたものであって 決して雁字搦めの規範ではないと見なした。
3-2. そう見なすことによって キリスト教道徳の枷を打ち破ることが出来ると勘違いした。
3-2. ブディズムは ブラフマニズムにちなむならば言わば仏仏一如である。ダルマ(法)たる仏と一切衆生にやどる仏性なる仏との一体性。そして そこにおけるこの仏仏一如なる信仰と 信仰とは別にオシへとなった戒律とがある。
3-3. すなわち 言葉でしめしたオシへを超えてその源泉となっている信仰のことが 二-チェは分からなかった。オシへないしシュウキョウとしてのみ扱っている。
3-4. つまり キリスト教が 鉄格子のごとき道徳規範だと誤解するとき ブディズムにも同じくきびしい戒律規範があるのを見ないふりをしている。
4. すなわちこのような捉え方にもとづくならば キリスト信仰とて 霊霊一如なのだ。神の霊性ないし生命性と人にやどる霊性ないし生命性との一体性。つまり 梵我一如すなわち仏仏一如と――信仰のかたちとしては―― まったく同じである。
――ということが ニーチェは皆目分からなかった。
5. 以上のような内容としての阿呆状態によって キリスト教に敵対し 古代インド思想に傾倒したものと考えられます。