caguirofie

哲学いろいろ

宗教は 信仰という生きた蝉の遺した抜け殻である

https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9405235.html

 1. 信仰は 絶対性とわれとのカカハリを言う。

 2. 類型として 梵我一如というかたちに表わされる。

 3. ブラフマン(梵)が 一般絶対性であり アートマン(霊我)が 個別絶対性
である。両者の――霊としての―― 一体が 想定じょう 信仰である。

 4. たとえば:

 (信仰)・・・:一般絶対性・・・・・・個別絶対性
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・アートマン

 ゴータマ・ブッダ:無梵・・・アン‐アートマン(無我):《無い神》派

 ブディズム:アミターバ・ブッダ・・・・ブッダター:《有る神》派

 随神の道 :オホモノヌシ・・・・・もののあはれ〔を知るわれ〕

 クリスチアニズム :テオス(神)・・・・・われ(神の宮)




 5. 絶対性は じつはこのほかに 特殊絶対性があると仮説される。

 6. 信仰は 《われ》ごとに個別に実践があることによる。

 7. 神道には――単純化しますが―― ミソギがあって それによってオホモノヌシの神との一体性を取り戻す。


 8. 信仰の具体的な実践を 個人でやれば 個別絶対性にとどまる。おれは神を見たぞとか 神なんているはずがないといったそれぞれ特殊な絶対性としても現われるが 個別絶対性の内にとどまる。

 9. そこからさらに この実践(修行?)のひとつの形態を 人びとが共有するようになると 個別の特殊な神観が多くの主観において 共同化される。つまり 何らかのオシヘ(不文でも)を共有するに到れば 宗教というウゴキに発展する。


 10. 一般および個別の絶対性なる理論が 実際じょうわれなる主観の具体的な実践として そこに特殊な絶対性を成り立たせるかに見える。これが 貿易の場に出て来る。輸出・輸入がおこなわれるわけである。





 11. アン‐アートマン(無‐霊我)なる個別絶対性は 現実にロウソクの炎が消え去
るかのようなニルワーナの状態になることを目指し ヨ―ガなどで実践する。《無い神》派というごとく じっさいに呼吸を止めるほどにまでなるという。六道輪廻からの解脱なのだという。

 12. ここまでは 主観におけるその神観としての特殊絶対性である。そして このニルワーナなる理想(?)の状態が 共同主観となったときには――オシヘのごとく受け留められ―― 人びとのあいだの宗教となる。


 13. アミターバ・ブッダが 称名念仏なる実践としての主観を呼び起こし この特殊絶対性が共同化されたなら その修行をしましょうというオシヘつまり宗教となる。
 (ただし親鸞は 念仏を修行ではなく善行でもないと言った。つまり 個人としての信仰にとどまる)。


 14. 加持(アディシュターナ)祈祷という実践がある。マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)の側が《加》であり 人間の側が《持》と成り 両者の――霊としてのという雲をつかむようなのであるが―― 一体を言うらしい。

 15. これも 個別絶対性としての或るひとりの主観にとって おのれが実践するだけの特殊絶対性であったものが 共同化されて 宗教となっている。



 16. イエス・キリストは 特殊絶対性の部分にかんして こう言ったという。:
 ▲  (マルコ福音 14:22-24 からその趣旨のみ) パンを採って これはわたしのからだだ。杯(ワイン?)を採って これはわたしの血だ。〔と〕。
 
 17. つまり 出エジプト記( 24:3-8 )でモーセも 生け贄から採った血を 契約の血とする特殊絶対性の実践をおこなっている。儀式が共有されれば 宗教である。 





 18. これらの例にみられる《特殊絶対性》は そのひとりの人間の主観の内にとどまるなら 一般および個別なる絶対性理論――つまり信仰なる動態――の範囲にあり そのまま 《生きた主観 生きた蝉》である。


 19. ところが 特殊絶対性は 或る主観を一歩外に出かけるなら 信仰としての絶対性は 消える。なのに その貿易は 自由だと思われて来た。

 20. オシヘないし儀式などの・言葉による表現をふくめた《かたちあるもの》を すでに主観と主観とが共有することになるから 信仰は消える。自由貿易は じつは 思想としてのみの話になる。



 21. 《梵我一如(あるいは 無梵無我一如;仏仏一如;霊霊一如)》において 絶対性とわれなる主観が 一体となるのが 信仰(非思考の庭)である。ところが 特殊絶対性は これもまだ主観の内にあってそれとして信仰にとどまるが そうではなくほかの主観と共有されたとすれば それは 《梵我一如》なる類型つまりその概念が 共有されたに過ぎない。

 22. 神を共有することは 無理である。交換もされ得ない。もし―― 一般絶対性は じつは普遍神であるので ひょっとしたら――共有なる状態が 現実であったとした場合 それでも そのことをわれわれ人間は 認識し得ない。ヒラメキにおいて その可能性を予感するのみであろう。

 23. 宗教は 儀式をふくめたオシヘとその実践を――特には《観念としての神》を―― 共有するわけで そこにとどまるなら まだ趣味の同好会であり得る。社会福祉をも伴なったとしても サークル活動だ。

 24. しかももしこのオシヘを神(絶対性)の代わりとし これを同好の士のあいだにおいてであろうと 従うべき規範や守るべき規則とするなら そこでは信仰は消える。信仰の神を オシヘの神に取り換えたのだから 当然である。



 25. よって 宗教は 信仰たる生きた蝉の遺したその抜け殻である。


 ☆ 検証をどうぞ。