《かみ と ひとたるわれ とのカカハリ》についての図解
回答No.5
- 回答日時:
1. まづ 《超経験(非経験の場)》と経験世界とを分けてください。
【非経験の場】:カミ
________________________(絶対のへだたり)
【経験世界】:ヒト:自然本性=身と心
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス
2. 絶対のへだたりを超えて 神の声(またはチカラ)がヒトたるわれにやって来る。神にそれだけのチカラがある〔という想定である〕。
3. それは 《心の明け(=信じる)》としての窓をとおしてである。
4. そこでは 《自然本性 プラス・アルファ 》としての霊我たる【 +α 】(つまりアートマンまたはブッダターまたはスピリトゥス)がやどると想定されている。
(これを アルケーと呼んでもよろしい。表現は まったく自由です)。
5. (1)の図は 想定の限りで 次のようになる。
【非経験の場】:カミ
_________________________(絶対のへだたり)
【経験世界】:ヒト
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド(ヒラメキ・良心)
-------------------------------
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス
6. 前項の図解を ウゴキを交えてさらにくわしく示します。
〇 《かみ と ひとたるわれ のカカハリ》についての図解
超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
↓ ↑ ↓ ↓
___________________________________
自然本性たるヒト: ↑ ↓ ↓
↑ ↓ ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
-----------------------------------
[経験世界] ↓ ↓
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト: 直観 ↓
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス:ヤマシサ反応
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
-----------------------------------
[経験世界] ↓ ↓
【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト: 直観 ↓
【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス:ヤマシサ反応
(恥)
7. 《信じるという動態(非思考の庭)》において想定したヒラメキや良心はかんたんに捉えて《考える》にも《感じる》にも 通じていると見られます。
8. したがって 《きのうおれは 神を見たぞ》とか《いや わたしは神のことばを聞いたんだ》とかあるいは《わたくしは じつは いつも神を――霊としてのように――感じています》といったそれぞれの主観が その自己表現として世に現われてもおかしくありません。
9. 感性の原野に神が現われたというそれぞれの自己表現は 《特殊絶対性》として 捉えられます。主観の内部における〔のみの〕絶対性だという意味です。
10. 信教・良心の自由ゆえに そこまでの人間主観は とうとばなければなりません。もしくは 《信じる》が《非思考――無条件ないし無根拠――》だということが 《信教・良心の自由》そのものを表わし 延いては 《あらゆる思想・表現の自由》そのことを 物語っていると考えられます。
11. 《信じる》とは 《非知なるナゾを無条件に無根拠においてわが心に受け容れること》です。
★ 勘違い
☆ ぢゃないんだよ。
7. 《信じるという動態(非思考の庭)》において想定したヒラメキや良心はかんたんに捉えて《考える》にも《感じる》にも 通じていると見られます。
8. したがって 《きのうおれは 神を見たぞ》とか《いや わたしは神のことばを聞いたんだ》とかあるいは《わたくしは じつは いつも神を――霊としてのように――感じています》といったそれぞれの主観が その自己表現として世に現われてもおかしくありません。
9. 感性の原野に神が現われたというそれぞれの自己表現は 《特殊絶対性》として 捉えられます。主観の内部における〔のみの〕絶対性だという意味です。
10. 信教・良心の自由ゆえに そこまでの人間主観は とうとばなければなりません。もしくは 《信じる》が《非思考――無条件ないし無根拠――》だということが 《信教・良心の自由》そのものを表わし 延いては 《あらゆる思想・表現の自由》そのことを 物語っていると考えられます。
11. 《信じる》とは 《非知なるナゾを無条件に無根拠においてわが心に受け容れること》です。
★ 勘違い
☆ ぢゃないんだよ。