caguirofie

哲学いろいろ

神 信仰ならびに宗教についての一般理論

(まとまったかたちのものゆえ)
 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。

 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。

  (あ) 神は 《非知》である。 〜〜〜〜〜〜

    経験事象
      可知
        既知
        未知
      不可知(知り得ないと知ったものごと)

    非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)
      非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
  
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 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。

  (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である 〜〜〜

    信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教
    感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ 

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   ☆ 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。

   言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。

   もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。

 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。

  (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる 〜〜〜〜〜

  =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ阿弥陀如来
      / マハーワイローチャナ(大日如来
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)
  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

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 ☆ 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。

 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。
 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。

 すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。
 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。

 なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。

 むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉は 神の依り代です。神を知りたいというとき引く補助線です。