caguirofie

哲学いろいろ

#9

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である

――§24――

《孤独・性愛・信仰》の章は 次の八つの節立てから成っている。

  1. 存在論的孤独あるいは不眠
  • 苦悩と死
  • コミュニケーションの基底
  • 性愛
  • 視線
  • 写真
  • 他者の〔再〕措定
  • 信仰

初めの三つの節を 第二章でたどってきたわけである。
《性愛》という主題にかんしては 無記だと判断している(§10)。ただし 性愛を論じるその論じ方については 論じるべきである。それは 愛の問題であるから。これは 第三章である。
ここ・第二章では 第4・5・6節を飛ばして おもに第7・8節について考えよう。その《信仰》論のあとに 《性愛論》論にも 触れることが出来るかも知れぬ。(=第三章)。

――§25――

絶対の孤独 まづこれは ただわたし一人だけの・またそれに過ぎない自由意志宇宙の体験を言います。宇宙という言葉を持ってくるのは 絶対のという雰囲気を出すためです。要するに 独立存在というのは 孤独です。自由であると同時に 寂しいはづです。
 この絶対の孤独は その同じ孤独どうしの関係を持つ。従って 他者に対するおのれの自由意志の絶対の無力を そこに見ている。そのような関係として 他者との関係を見出す。つまりは そこに そういうかたちで 他者を捉える。こう考えて来ました。
ここに関係性が 原型をなしており これを愛としても想定した。それは 原理性としてあって 経験現実としては実現不可能だと 同じく前提させていた。《他の宇宙》は われわれには互いに知り得ないのだと。
ここで大澤は この他者ないし他者関係について 《他者性》という概念を進んで立てる。孤独なる自由意志とそれの・他者に対する無力性 またそれに基づく互いの差異性 である。

(q) すなわち他者の他者性は――私と異なる独自の志向作用の帰属点たりうるという性質は―― 私の身体に帰属する宇宙から逃れ去っていくという遠隔化の過程の中で開示される・・・。
(p.40)

《わたし》(志向作用の帰属点)がその無力の有効を想定しつつ自由意志を立てて他者関係を見出すというとき ここに見出した他者関係を 一個の認識の対象とするというのである。《他者性》と規定したこの概念は わが自由意志の絶対の無力を見出すときにこそ――《私の身体に帰属する宇宙から逃れ去っていくという遠隔化の過程の中でこそ――開示される》というのである。ボブとアンとが (B):《任意のコミュニケーション》を展開しているとき その具体経験的な表現過程ではなく そのあたかも基底に原理的にはたらくかのような他者関係(だから 愛でもある)を 二人はそれぞれいま 積極的に認識しようと試みる。それが 実現不可能性としてボブからもアンからも遠ざかっていくとき そこにこそむしろ開示されるかも知れないというのである。
ここまでは 思考と想像をはたらかせた人間の知性の成果だと考えられる。

(q−1) 本来は 対象化しようとする志向作用から撤退してしまうということ つまり志向作用に対して不在=空虚であるということ(* =自由意志の絶対の無力) そのことこそが 他者の存在と同じことなのであり 直面する他者(* アン)を まさに他者として私(* ボブ)に対して顕現させるのである。
(pp.40−41)

――§26――

この《他者性》をさらに発展させて議論するその内容は ついて行き難い。上の(q−1)につづく次の議論は 不要だとわれわれは考える。

(q−2) しかし 他者性が 私の志向作用から既に逃れ去ってしまったものとして与えられるがゆえに 私(* ボブ)と直面し それゆえ私と《現在を共有しているこの他者(* アン)とは別に 《既に予め私を捉えていた》 《既に私に志向していた》と言いうるような他者(* これは 内容不明)が 真の他者性の担い手として あらためて措定される可能性が出てくるのである。
(承前)

すなわち 《他者性》を概念として持ち出すことまではわかるが(――なぜなら その表現を用いて思考を発展させうる――) それに対して《真の他者性の担い手》などというまでに抽象概念化することは よく分からない。つまり《内容不明》と注釈した《他者》のことであるが これがのちに《神》と規定されていくものである。
つまり大澤は つねに別の側面を伴ないつつのように 批判的な観点からも論じてきているのだが 人間の他者関係については このような身体(=精神)的な営みが 不可避であるというような観点からも取り上げ分析しているもののようである。
われわれは ここ(q−2)からの議論を不要と考えるが 他者関係(つまり愛)の捉え方として まったく無効だと言い切れない側面がそこにあるとするなら それは 事後的な分析として ある程度そのように捉え返すことのできる部分にも触れているからだと思われる。
いちばんの問題は 出発点である。《他者性が 私の志向作用から既に逃れ去ってしまったものとして与えられる〔がゆえに・・・〕》というのは げんみつな言い方では 妥当ではない。孤独宇宙なる《わたし》が 絶対の孤独どうしの関係として他者関係を見出したというとき その関係を《他者性》という概念で捉える(また それに過ぎない)のが 出発点での実際内容であるのだが そうであるのだから げんみつに言えば 《他者性が与えられる》のではない。《〈わたし〉が他者関係を見出したというとき その関係を〈他者性〉と名づける》に過ぎない。
もし逆に《与えられる》という表現を用いるのなら 《他者性》はもともと人間の条件としてわれわれに与えられていたという言い方が妥当である。だから 《他者性が 私の志向作用から逃れ去ってしまう》のではない。自由意志〔による志向作用〕の無力を見出すとき(つまり そのようにして自己の志向作用から 他者の孤独宇宙が逃れ去ってしまうとき) やはり他者関係を見出して これを他者性と名づけるに過ぎない。
すなわち 《あらゆる関係の原型たる愛》という想定は ほとんど変わらないものなのである。
だとすれば 別様には 先ほど上に触れたところの《もともと人間の条件としてわれわれに与えられていた〈他者性〉》と言えるからといって この《他者性》が 《すでに 予め私を捉えていた / 既に私に志向していた》というのは 詩的比喩ではあっても 議論の展開としては無意味である。《もともとの人間の存在条件たる〈他者性〉》をめぐって わざわざこれを再び《真の他者性の担い手として》 どうして措定しなければならないのか。初めの他者性を創造しその担い手となっているような大いなる他者をあらためて措定しなければならないのだろうか。
(つづく→2008-04-05 - caguirofie080405)