caguirofie

哲学いろいろ

#11

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である

――§30――

自由意志の孤独が他者のそれに対して 絶対の無力であるとき――すなわち他者関係がそのような差異関係として成り立っていると思われるとき―― 意志の自由な選択として孤独宇宙の外部で思考・想像されたものは 一般にそして原則的に 表現の自由のもとに 取り扱われる。言い換えるなら 転倒した思考・擬制の愛(他者関係)といった無効の思想も 自由のもとに生じて来ているとまづは取り扱われる。その思想を自由に保持することが通れば その人のその現存性なる事実関係は 時間の経過をたどり そして依然として表現の自由が侵されるべきではないという社会秩序のもとに それとしての存続の歴史をつくることになる。この現存事実性によって 無効も 実効性を獲得する。かくて 擬制の神体験なる信仰が――すなわち むしろ 経験思考の対象たる観念であり これを念観するところの思想であるものが―― 《わたし》たちのコミュニケーションのあいだに 生きつづけてきている。あるいは無効であるならそれゆえに 死に続けて来ている。無効の思想であるとすればそれは 人をして他者関係なる愛を見せしめ得ないということである。想定上 そのように帰結される。
これで この章の主題は 基本的に扱い終えたと思われるが じつは上に見て来た(q)系の引用文につづいて大澤は さらにさらにこの――つまりわれわれの言う擬制の――信仰について 徹底した分析を加えていく。よくも悪くもこれを進めている。われわれの見るところでは 擬制で無効なのだが 擬制というからには 有効な他者関係であるとかその原点である信仰体験と よく似ている部分をも持っているということである。その微妙なちがいを さらに明らかにするためには なお大澤のこの信仰論をあらためて追って行かねばなるまい。

――§31――

よくも悪くも――すなわち反面で批判的に捉えつつ―― 大澤はあらためて信仰の定義に入る。われわれの見解との微妙な差異を明確にするために ひとまとまりの原文に即して議論する。一頁半におよぶ(r)系の引用文となる。

(r−1) 対象として積極的に措定され 一個の実体として現われることによって《他者》(* 神)には超越性が付与される。
(p.43)

《対象としての措定 / 一個の実体》などというのは 何のことかわたしには分からない。そして《超越性》は われわれもそれに信仰体験がかかわっているとは見ている。具体的には孤独宇宙の地平(また限界)とも呼ぶべき超越性の領域であり そこですでに非対象・非思考の体験があって――つまりまづこれが 先にあって―― それにかんして非対象が事後的に神ということばで認識の対象ともされる。信仰体験の全体の説明のために この神という代理表現が用いられる。こう述べていた。つまりそういう順序があり秩序がある。その神に あとから《超越性が付与される》などと言われても 何のことだか分からない。そういう順序は ありえない。だが

(r−2) 超越性とは 体験の可能性の地平の総体として規定する働きをいう。
(承前)

というのは 巧みな説明であろう。そのような《はたらき》は何もないかも分からないのであり 分からないのだが 非思考・非対象と説明するしかないような地平領域での体験だということである。すなわちこの《はたらき》が非対象のものを代理して表現した一つのことばであり つまり神のことであり この神なるはたらきは 人間の自由意志と知性とによっては その有・無いづれであるか判断のつかないところである。したがっていまの信仰体験が 何らかの形態として説明表現されるとすれば 有神論か無神論いづれか一つの形態として かつそれらは互いに対等な代理表現の形態として 持たれると考えられる。
神は非対象である。有るか無いか・存在するかしないかは 人間の論法では 決定不可能である。だから もし己れの信仰体験の持続を願うならば そのときには 信仰形態が 有神論か無神論かで説明表現されることになる。とりあえず《有る》と見るか とりあえず《無い》とするしかないと言うか どちらかの形態をとる。どちらも――非対象の非思考ゆえ―― 信仰なのである。無についても そういう仮りの表現で 信じたということを表わしている。
この信仰の持続というのは 出発点にあって――出発点なる現在過程にあって―― いわば知性の限界に出会ったとき 信仰原点に繰り返し戻ってみる というほどの意味内容である。すなわち 出発点というのは わたしの現在過程であると言ったが これは 意志による選択の自由としてある。自由な意志の選択行為に置かれたわたし すなわち 《おのれの孤独宇宙の内部》とそして《他者との任意のコミュニケーション関係にある外部》とから成るその綜合としての《わたし》の出発点である。
非対象の体験を仮りの対象思考によって代理表現しようとするとき その説明に有神論か無神論いづれかの形態をもってくることまでの内容であるなら 初めの信仰原点は 有効であろうし 愛なる他者関係にも支障をきたすことはないであろう。むしろ他者関係に臨む《わたし》なる出発点に対して 結局すでに背景へとしりぞいているであろう。もちろんボブとアンとが 互いに自由に おのれの信仰原点を披露しその信仰形態について論議し合っても一向にかまわないのである。

――§32――

(r)系の原文を引用し始めたのであるが ここで一つの傍系の議論をさしはさもう。§34までつづく。
わたしを限界づける神なるはたらきは あるかも知れないし ないかも知れない。仮りに ないとする場合を考えてみよう。大雑把な議論ではあるが それを信仰形態としては無神論に作りそこに立つ場合と そして別様にあたかも次のような場合があるかに考えられる。じつは もはや信仰領域をまったく省みることなく ただ経験思考によって 《無神信仰》といった説明表現を作らない場合。つまり 仮りに その説明表現を作り上げ得たとしても 結局いわば《無神思想》を立て これに則る場合である。要するにこの経験思想としてのみの無神論は おのれの孤独宇宙が 超越性には一切関係ないと見ており 信仰形態には成り得ない無神論である。――われわれが考えるに有効な無神論は あくまで超越性にかかわる信仰体験の一種として成り立つものである。しかるに そうでない無神論が一般論として考えられる。
そうするとこの場合の無神思想については そこではもはやわたしの孤独宇宙の外部には 具体的な人びとなる他者がいるのみとなる。ちなみにわれわれの立ち場でも 出発点としての一般的なコミュニケーションの場では 信仰原点が背景にしりぞいているという意味では ほぼ同じ事態となる。つまりボブの外部は 即 アンの存在であるとなる。従って問題は 超越性を介するか否かになるのだが このことは 絶対の孤独 すなわちわたしの自由意志の絶対の無力が その限界づけのはたらきとしての神ないし無神を介するという事態であった。従ってこのとき 他者関係が絶対の差異であって 自由意志や知性の及び得ないような・愛の実現不可能性がいま大前提であるとき そのような限界づけのはたらきは――いまの無神思想にあっては―― 全く単純に 具体的な他者なる人びとの現存性そのことだということになる。世の中が思うようにならないということが無神思想にあっても現実であり真実であるというのなら そのように自らの思い(孤独宇宙)への限界づけ自体は 一般的な事態だと考えられるからである。しかも そのとき 超越性には 思い到らない。到ったとしても 省みない。そんなものは関係ないという立ち場である。
すなわち簡単にいえば 無神思想の人びとにとっては 他人がそれぞれ互いに神だということである。そこでは 《人が見ているから》とか 《世間の眼がある》とかいうことが 自由意志の無力(もしくは 我がままの抑制)をもたらしているということになる。超越性を立てない限り そうであろう。もっとも 自然の驚異に出会って 自然ないし超自然に対する畏敬の念を持つというのも 一般によく見られるものである。のだが 孤独宇宙の境界をめぐって これを超えたところには 神を想定せず 自然現象の中に いわゆる《かみ》見ると表現するばあいがあるということである。
これは かんたんな議論ながら 信仰無視の無神思想を説明したものである。またはいわゆる多神教かつ《無宗教》の世界のことである。アニミスムと言ってよいかも知れない。――いま直ちにただし書きをしなければならないことは 次のことである。たとえ無神論・有神論いづれの信仰形態をも しりぞけたとしても いわば非信仰という立ち場に立つのだという議論は 有効な他者関係をたどる出発点の《わたし》でありうると思われるそのことである。つまり早い話としては 他者関係を見出す《わたし》なる出発点が 任意のコミュニケーションにおける関係過程であって ほかに それに先行する信仰原点などという想定は もはや一切しないという立ち場のことである。
もっとも実際には このような出発点なる《わたし》のみに徹するという立ち場は――わたしの考えでは―― 有効な無神論なり有神論なりの信仰者がやがて行きついた姿なのだと思われる。だとすれば――もしそうだとすれば―― いまわれわれが それは無効だと批判しようとしている無神思想は まさに擬制によっていると見なければならないこととして 次のことを示している。《無神(あるいは 多神・汎神)》としてのように 信仰の神体験における表現と同じことばを用いこれを掲げているということ。また その限りで おのれの自由意志の限界に突き当たるという経験を持っているということ。したがって そのような孤独宇宙を限界づけるはたらきのことをも捉えている。つまり その時の限界づけにかんする情況を捉えて これを 超越神としてではなく 自然現象ないし社会自然としての経験現象の一つひとつを 《かみ》として表現することもある。信仰にかんする骨格としての形態そのものは これも 摂り入れているということである。擬制としてである。信仰もどきとしてである。
《無私》であるとか《無常観》あるいは逆に《真の自我 / ほんとうのわたし》などなどが あたかも信仰体験のごとく説かれつつ 実際には 何の某という具体的な他人および世間が あたかも自由意志の無力を知らしめるはたらきなる神なのである。
そのときさらに世の中での具体的な実際では 自由意志の無力をいやというほど知らしめられる人びとと それに比して相対的にはわが自由意志の発揮を恣ままにしている人びととがいるというところまで 分析としては予定しているのだが ここではこの議論の伸びは省略に従おう。
けれども もはや現代において純粋な(?)アニミスムはありえず 土着の無神思想ないし多神教主義者も このように世間が神であってよいというようなかたちで 何がしか超越性の問題なり信仰領域なりのことは すでに承知であり留意しているもののようである。しかもその上で 信仰を原点として出発する有神論者または無神論者を まとめて唯一神思想の類型のもとに捉え ほかにはもはや有効な信仰形態はありえないのに みづからの信仰(思想)を擬制的に 多神論として押し出しているのである。
多神教として押し出されてくる擬制の信仰 そのような無神思想は それが押し出されてくる理由の一つとして次の要素にかんしてなら 話がわかる。有神にせよ無神にせよそれらはなるほど まさにそれぞれが《対象として積極的に措定され 一個の実体として表われされること》になってしまったという所謂る西欧に発する歴史的な経過と事情 これに対する批判としての要素 これについては 話がわかる。だが 多神教思想じたいについては 何の有効性もない。他人の眼や世間が神だというとき(あるいは逆に 神も仏もないというとき) そのように一たんは信仰形態の神が無であってよいわけだが そこでは 有思考にかかわる有対象が 自由意志の無力を知らしめるはたらきであるとなっている。こういうのでは きわめて不都合なことが起こる。と言わざるを得ない。端的に言えば 人間どうしの力関係によってのみ 社会は 動くことにならざるを得ないという情況のことである。
互いに自らの存在(孤独宇宙)が神であるというとき その神々のあいだには 社会的な力の関係にもとづいての秩序が形成されてくるのは 必然であり それのみだからである。多神教と銘打っての思想のもとに 神々つまりわれわれ人間は 互いに平等であり自由であるという感覚が強くそれは通念となっていると思われるのだが 当然の如く 政治的・経済的等々の力学関係にもとづく社会的な秩序と安全とが保障されるということのほかには 他者関係ないしコミュニケーションが展開される気遣いがなくなるからである。単純な分析としては 神々が 比較的に勢力のある天つ神と無力な国つ神とに分かれ 個人どうしとしても団体としても階層関係としても それらの強弱の二者関係として 和なる秩序関係が保たれるというのみである。強弱の二者関係としての 和が保たれるということにしかならない。この二者関係は 必ずしも対立関係であるのではなく 相互補完のような関係にもあると考えられる。互いに神であり 死んだら皆 神であると見なされているその思潮の中にある限りで そう考えられる。
国つ神であるボブが 天つ神であるアンという他者を それではこういう情況においても 見出すことになるかというと そうではない。ボブもアンも 両種族(両神族)のいづれかに属し しかも両神族関係〔から成る社会全体〕に属していると自らをそれぞれ見出すときのみ かすかに人と人との関係が始まる。言いかえると 自らの属する神族の間では必ずしも互いに他者どうし(つまり差異の関係)であるとは見なされず しかも 一面では対立する神族である相手方の人に対しても だからと言って 他者が見出されるかというと これも覚束な。そうではなく そうであるよりはむしろ あたかも両神族関係から成る社会全体が一個の孤独宇宙であるというかのように存在することになる。その全体の内部では あたかも あなたは私であり 私はあなたであるという如くの事態が展開されるのである。《我れ》という自称 あるいは 《おのれ》という自己称が 相手を表わす対称のことばとしても使われるということが起こる。怒りを感じて相手に向かって 《おのれぇーっ!》と叫ぶ場合や あるいは 《〈自分〉は どう思うのか?》と表現して 相手の意向を問うていることが起こる。ひとつの大きな繭の中の夢ものがたり? 居心地がいいのだろうか?
多神というときその《多》は 思考の対象を捉えてこれを認識し数えていることにほかならない。あるいは《神も仏も無い》という観念が――つまりやはり 有思考・有対象が―― 信仰の神であってはならない。有神ないし無神というときのそうとすれば唯一神が 多数に分かれているにすぎないという説明は もはや信仰形態として成り立たない。《タシン》という記号としての一つの代理表現なら別だが 《多数》あるいは《分かれる》という対象思考は 自らの孤独宇宙の内部に生じる観念の運動にすぎない。超越性には関わりえない。他者関係に導く神体験(その説明)には成り得ない。超越性領域において 有と無とは互いに他を選ばないが 《多や汎》は 思考とその対象とによって選ぶところがある。
(つづく→2008-04-07 - caguirofie080407)