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哲学いろいろ

仏教は一神教か

1. 神は 全体という意味での一つですので しかもそれが無限ですから これを二つに分けても三つに分けてもあるいは多数に分けても その分けた一つひとつ これらもそれぞれ無限であり 全体です。

 2. あるいは 全体としての一つは それが神であるなら この経験世界での有る無いを超えているので この神を《有る》と言っても《無い》と言っても 一人ひとりの信教・良心の自由において 自由です。

 3. これら二つの事項を言いかえるなら:
  3−1. 神は 一般に神という名の神を想定する一元論のもとに 唯一神の信仰や多神論のそれやあるいは汎神論のそれもあります。

  3−2. それらは 有神論としてまとめられるのに対して 《無い神》を立てる無神論もあり得ますし あります。

  3−3. それらの神(神や多神や無い神)はすべて 互いに同等であり それぞれの信仰の徒は互いに自由に信仰を持ち 信仰の動態としても互いに対等です。

  3−4. さらには これらの神をいかなる名で呼ぼうと それぞれの自由です。言いかえると 神の名が違っても 何の問題もありません。すべて 同等で 同じ一元論のもとにあります。

 4. この経験世界の《有る・無い》を 非経験の領域の神に当てはめて 有神論と無神論とに――標榜する名としては――分けて人間は《信じる》という行為動態を持つわけですが このときたとえばやはり経験事象である《因果関係》をも神に当てはめることが起こります。
  4−1. 経験的な〔自然〕現象や〔人間の行為関係としての〕事象には 因果関係がありますが それらすべての現象・事象の《はじめの原因》を 人間は知りたがります。

  4−2. かくして《それ自身は動かずしてほかのすべてを動かす第一原因》であるとか あるいは単純に《創造主・造物主》という呼び名で呼ぶとか このような神の属性の規定が持たれて来ます。

  4−3. この場合 無神論は 《無い神》としての《第一原因》が神として想定されるという立ち場のことです。言いかえると 因果関係は この経験世界における現象や事象にかかわるモノゴトに限られると見ます。それ以上は・それ以外は もはやいっさい問わないという想定です。

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 5. さて 創造主を立てるのは たとえば古代インドのブラフマニズムであり 神を――創造主にして主宰神であるところの――ブラフマンと名づけます。
  5−1. むろん一元論であり ブラフマン唯一神だと言っても間違いではありません。と同時に そのほかにこの神のもとに たとえば〔はじめとしてのではなく その後の人間がおこなう経験的な〕創造と破壊の神々として ヰ゛シュヌとシワ゛を置いたり 象の神から何から多神論をも展開します。

  5−2. 人間にも《アートマン(我)》としての或る種の永続的なモノ・コトを捉えたと見て この場合いわゆる梵我一如をとなえます。梵=ブラフマンであり 我=アートマンであり 両者が一体であると。
 6. ブッダは このブラフマニズムに異を唱えて出ました。この世界に《何ものにも頼らずひとり永続して有るという存在》はあり得ないのだと見ました。つまりブラフマンを否定しました。
  6−1. 諸法無我といえば すべてのモノゴトは 永続的なものなどないのだ(諸行無常)と言っています。つまり無我(アン‐アートマン)という説であり けっきょく無梵(ブラフマンの否定)です。

  6−2. つまりブッダのおしえは 無梵=無神 ですから 明らかに無神論に立ちます。むろん 《無い神》としての一元論であり そういう――けっきょくは――信仰です。

  6−3. 何故かと言えば このブッダの無梵無我なる無神論は 言ってみれば 梵我一如ならぬ無梵無我一如とでも言うべき《世界と人間のわれとの一体》を言おうとしているからです。

  6−4. それが証拠に ゴータマ・ブッダこそひと言もその言葉を言わなかったそうですが 後世において この宇宙と我との一体についての根拠(あるいは 無根拠)のことを 《如来蔵ないし仏性》と言うようになったからです。

  6−5. アニマ・ムンディ(プシュケー・コスムー 宇宙霊・世界霊魂)が 人間にも宿るといった古代ギリシャからの思想と軌を一にしていて はたまたこのクリスチアニズムにおける聖霊とも同じだと見られる宇宙霊をしも 仏性と呼んでいると見ることができる。このような呼び名や規定の仕方に違いがあるだけだと見られるからです。

 
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 あぁ これで一気に結論まで来ましたね。取りまとめの仕方が整っていないかも知れませんが このように。

 ★ 仏教は一神教
 ☆ すべての信仰は 一元論です。
 ブッダの示した一元論は 無神論――無梵無我一如という無神論・また後世において仏性をそこに捉えて見るというからには有神論まがいの無神論――です。

 有神論である証拠に ブディズムのそれぞれ一派として アミターユス(無量寿阿弥陀仏)やマハーワ゛イローチャナ(大日如来)といった唯一神が唱えられています。

 禅は 無神論のままであるかと思われます。

 曼荼羅に神々がいるとしたら それは多神論や汎神論ですが 《ひとつの無い神》という一元論やあるいはほかのそれぞれ唯一神としての何々ブッダ(つまりそれぞれ一元論)のもとに位置づけられていますから 多元論ではないわけです。また いわゆる善悪のそれぞれの神を立てる二元論でもありません。
 二元論や多元論は 非経験の神を想定するかたちとしては あり得ません。二や多で分けても やはり神は ひとはしらのみですから。