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哲学いろいろ

#13

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第二章 信仰とは 非対象についての非思考なる体験(また表現)である

――§36――

(r−8) こうして 他者(* 現存するアン)の超越性は 常に 挫折せざるをえない。
(承前)

ボブにとってその自由意志の限界領域としての超越性は かれの孤独宇宙の外部にいる他者アンの現存じたいが あてはまるかのようではあるが――すなわちそれが ボブの能動性を奪取するかのように見えるというのであるが―― 基本的に言って そのように他者アン〔の現存によるはたらきとしての超越性〕を捉えようとすることは 成功するとは思われないということである。ボブは目の前のアンを見ており その現存がそれだけで 何らかのはたらきを為すかのようであるが 実際にはボブの孤独宇宙に介入することはありえないと考えられる。《要するに その他者アン(あるいは 逆に ボブ)が何を欲求し 承認するかを確定することはできない》(r−7)という原則(自由意志の絶対無力)。従ってわれわれの考えでは 便宜的な想定としてでも 信仰体験の超越性を立てる。つまりボブにとっての超越性は 初めからの他者体験ではなく――必ずしもそうではなく―― 或るとき或る場での非対象・非思考の神体験とも呼ぶべき信仰原点にかかわるとする。
この信仰原点を介すれば ここからただちに 孤独ともう一個の孤独との関係として 他者関係が見出されていき そこでボブとアンとは まったく自由に(つまり 互いの共通性・同一性にかんする推理や心理をほとんど一切必要とすることなく) 任意のコミュニケーションに入っていく と主張している。いまだつねに未実現の愛のもとに でよいし それ以上望むことは無理だと考えて来ている。
大澤によれば ここから《真の他者性》(q−2)を立て そこから導いた《他者》(q−3 / 4)として 神あるいは信仰が 定義されていくのである。

(r−9) だがいまや《他者》が同一的実体として確保されるのに並行して 地平を規定する機能が 《他者》に帰属するものとして 確定される〔* かのような外観が生じる〕。
(承前)

最後に注釈した内容が 重要である。他者関係〔にある《わたし》〕を人間と社会との――つまりは 抽象的に言って 愛の――出発点とするとき これをもしわざわざ信仰という原点を経由するという見方で説明する場合には 自らの孤独宇宙に対する超越性にかかわる信仰体験として議論している。そこに 代理表現として 神が立てられている。超越的な信仰体験など何もないと言う人も この神など存在しない / 神だと信じてはいないと表明したときには その主張内容は人間の知性によっては論証し得ない性質のものなのだから 一種の信仰体験なのである。つまり 体験かどうかを別としても 信仰原点を確かに形作っていると言わなければなるまい。
 けれどもこの神を 上の引用文にあるような《他者》として ボブやアンやすべての人にとっての《同一的実体として(=つまりは そのような最小公倍数のごとき観念とその共同化として)確保する》というのであれば まづ話はまったく別だと言わなければならない。われわれとしては これは明らかに 擬制の信仰であると言っている。それは そのような推理と思いとの――孤独宇宙の内部での――問題であるにすぎない。
大澤も 書物全体を通じてその文体としての捉え方においては あたかもわれわれと同じ方向の批判的な見解をたずさえていて そのために分析しているという側面が つねに伴なわれているようなのだが――つまり最後の結論として そのことを否定することは出来なかった―― だがこの批判の視点は 明らかにされなければならないと考える。
誰にとっても《同一的実体として》――あたかも孤独宇宙の内部に備えられていて 世の中を他者どうしのあいだで流通する観念の手形か貨幣のごとく―― 誰に対してもその各々の《わたし》をすでに捉えていたと言いうるような《他者》なる神 これの想定は 孤独宇宙の定義に反する。なぜなら ボブにもアンにもボギーにもベスにも常に等しく《同一的実体として》信仰体験される神というのは いま果たして一体だれが 体験しこれを説明しようとしているのか。《要するに他者アンが何を欲求し 承認するかを確定することなど出来ないのだ》から 自らの孤独宇宙を超えて 他者アンの超越性や神体験をとやかく言うことは まるで無効の事態である。神にかんする《同一的実体なる他者》説 これは 正気の沙汰ではない。

  • 死者としてだけではなく 実質的には生身のわたしや あなたが それぞれ互いにとって神である文化においても 類型的には いまの《他者神》と対照的なかたちで 同じような無効の事態が 捉えられるのではあるまいか。信仰体験なる超越性(そういう概念想定)を間にはさんで 両極に位置するかたちで対照的である。一方では 究極的な抽象化をうけた《他者》の観念 つまりは結局のところ 孤独宇宙の内部における純粋意識(?)なる観念としての神。他方では 抽象化を一切拒否し ただそこに現存するという事実性に 神を見る。ただし 同じく観念として もしくは その念観として 神を互いに見留め合っている。どちらも じつは 超越性を無視している。超越性の何たるかが分かっていない。ゆえに 地平限界を持つ孤独宇宙なる《わたし》の欠如が 生じている。または同じく 他者関係の欠如である。

(r−10) これによって 地平(* 自己に所属する宇宙)の根本的な偶有性が 解消される〔* かのように現象する〕だろう。
(承前)

ここでも 注釈が重要である。これは 孤独の《解消》あるいは《解除》の問題である(第一章§14以下)。すべて擬制として そして内部観念の中で そういうおとぎ話が持たれる ということであるだろう。そのような想定は 観念的にでも 人によって心地よいことであるのだろうか。そうなのかも知れない。共同性として 仲間意識として そうなのかも知れない。わたしが誰なのか どこにいるのか そのような不安をも伴なう《偶有性》が 解消されるという感覚は もし言うとすれば 神体験にも伴なわれていて それと同じような経験であるとさえ見なければならないのかも知れない。
たしかに有効な超越性にもそのような付随的な感覚は 伴われるかも知れない。その意味でも 観念の他者神の信仰は 擬制として成り立たせようとして持たれるものなのであろうか。《地平の根本的な偶有性》は 自由意志宇宙の決定不可能・不安定・絶対の孤独のことでもあるが これが解消されるというのは ボブとアンとか一人ひとりその個人にとってしか ついぞ分からないとまづ その大前提をおさえなければいけない。逆にいえば 観念体系として いま神を想定しようとしているがゆえに その擬制のもとに あたかも信仰体験に伴なわれる内容が 一般的に・まったく一般的に 説かれている。
ここには 一つの重要な論点がある。有効な超越性=信仰体験 あるいは 有効な他者関係差異の認容 あるいは 有効な愛としてのコミュニケーション このような原理性にかかわるその内容を 人びとは一般に ほんとうのところは すでに知っているという仮説が出てくることである。

つねに未実現にとどまり 結局は実現不可能だと考えられる愛について それでも人は 自らの自由意志や知性の及び得ないかたちで 知っている。

というかに考えられるのではあるまいか。それゆえ いくつかの擬制がつくられるのである。もちろんわたくしの説も 擬制の一つであるかも知れないのだが 知性論理の及ぶ範囲では その主張を互いに批判しあっていってよいわけである。

――§37――

(r−11) 他者(* アン)は もともといかなる現象ももたず いかなる実体としても存在しなかったが 《他者》(* この場合は 括弧にくくられていて そのような神観念)は その他者アンの不在の場を充填し 同一性を有する実体として構成されるのだ。ただしそれは 現象する他の諸存在から区別された特異的な実体である。
(承前)

自由意志の絶対の無力とは ボブにとって他者アンが絶対的に不在しているということである。アンという女性なる人間は そこに今 現存しているのだが 他者としてのアンは 不在である。言いかえると アンなる人については 人としてのボブ自身の性格や思いや気持ちやあるいは考えていることがらに関してしか分からない。他者なる部分については じつへ分からないし 察し合ったり思いやったりするることは 無理なのである。その二人の間でこれが愛だというかたちでは コミュニケーションも他者関係も 築けないというのである。それは つねに想定にとどまるということ。その知性の地平には限界があるということ。あるいは分かる範囲で 愛情を感じたり 努力しつつ理解しあったりすることは出来る。けれども愛は そもそもとしての愛は 希望としてあるということ。希望とは かたちのないもだが希望であるという場合のそれである。だがここでは――大澤の議論では―― このような他者アンの不在の場を 神がつまり神観念が《充填する》という議論である。いったい 何を考えているのか。
これは 《孤独の解除》に似ている。またはそれ以上のいわば具体的な愛が――部分的にせよ あるいは 外観たる現象としてにせよ―― 実現されるというようである。
他人の孤独宇宙やその超越性体験のことをよくも見て来たものだと言わざるを得ないことも然ることながら(――それがつまり 観念体系としての構築であるというものなのだが――) 実際問題として弱い存在としての人間は 有神論にせよ無神論にせよ 信仰をそのような形態で表現し抱いているとき その信仰が わたしを満たすと感じることは そのつど ありうることであろう。つまりその《信じる》という表現行為にかんする思念じたいは 経験的な現象であり 心の眼に見えるものである。つまり みづからの孤独宇宙の偶有性や決定不可能性また不安といった欠如性を 充填されることはあると言うべきかも知れない。要するに 心が癒やされることは 経験するところである。超越性体験であるのならば 日常性の出発点領域の奥なるその原点領域では むしろあたかも非対象なる神(ないし無神)が わたしをすべて覆い尽くしていると感じたとしても 不思議ではないように思われる。
けれどもこの信仰は 現存性としても 何らかの形で経験表現していく他者関係への原点であるのであって 実際には他者アンとの具体的な表現関係に入ったなら そのような任意のコミュニケーション過程へもはや道をゆづっている。自らの宇宙内部では時としてこの信仰原点が充満し 心は埋め尽くされるかも分からないが 信仰こそは 自由意志の無力として他者の不在を見出しているときの契機なのである。もしくは 逆に現存の確認を見出しているときにとっても その契機であるだろう。そして それだけで よいのである。
この《他者の不在の場をわざわざ充填する》というのは また話が違うと言わざるを得ない。不在の場として(――つまり わが志向作用からむしろ遠ざかっていく過程で――) 他者アンを見出したなら そのままコミュニケーションに入ればよいのだし もしそのようなコミュニケーションへの進みが得られず他者の不在を見出さしめる信仰にそのままずっととどまるというのであれば これは 《他者の不在であることをずっと見つづけさせる》というにすぎないと言わなければならないのである。つまりそのような信仰内容であれば 信仰原点が支し障りをもたらすということはないのである。
あるいは 分かり易く言うとすれば 他者なる不在の場を充填することは出来ない相談なのだ。充填しようとする必要などないとおしえるのが 信仰である。他者アンの現存が現存として確認され(――つまり ただそっこにいる人として認められ――) 他者関係の相手として保持されたとき そのボブにとって それまでの不在の場があたかも充填されたと感じられるかとも思われるものの 事態は げんみつにはむしろ不在が不在として確認されたと捉えなければならないものなのである。それで一向にかまわない。もしそうでなければ 初めに原理性として 愛の実現不可能を言う必要はないし まちがっている。
さらにつまりは 他者は わたしの孤独宇宙から逃れ去っていく時にこそ開示される(q)。自由意志が無力でわが志向作用はついに他者アンに到達し得ないと信仰がおしえるとき その無力どうしで 差異をたずさえる他者関係がむすばれていくと考えられるのである。しかもそのとき 信仰は 孤独宇宙の内部とその限界にかかわって ボブの《わたし》を満たしていたことはあったとしても その外部で他者アンをボブが自身の志向作用の無力のもとに見出した時には 消えている。信仰は 原点として伴なわれるが 出発点(それ自体が 過程である)において 関係へと互いから踏み出されているときには 身を引いている。そのように――自らは引き下がりうつ――現存性でのコミュニケーションの場へ 《わたし》を送り出すものだと考えてよいはづだ。

  • 当然のこととして このあとは それ自体がコミュニケーションの過程でもある出発点の領域において つまり任意のコミュニケーションにおいて――さらにつまり そこは 経験合理性の領域であるのだから―― 相互の理解を図るための努力は 最大限に知性によって不断に なされていくのである。そこは 経験知性の出番である。

そうして このいまの議論の最後としては 次の点に触れれば足りる。もし信仰原点と出発点とが このような仕組みで成り立ち ボブにとってもアンにとっても 有神か無神かいづれかで神がその仕組みの中に位置しているという想定であるとすれば この神はあたかも皆にとって一個の共通の《他者》(あるいは 公倍数のごとき第三項)であり 《同一性(共通性)を有する実体》として現われていると言おうと思えば言えるということになる。
この問題なのであるが はっきりしていることは そのように言えるということが あくまで結果としてだということである。言いかえると《他者 /  同一性 / 実体 / あるいは創造神などなど》はほとんど記号としての問題(つまり 代理表現)であることにおさまらなければならないということである。出発点においては 身を引くという意味である。大澤の議論は 逆に この具体的なコミュニケーションの場に 信仰ないし神が姿を現わすというかのようである。《究極の他者》だという。
われわれの神(無神)は すべての人にとって《同一性》なる超越として存在すると初めに立てたものではありえない。初めに皆にとっての共通の同一性実体としてあるがゆえに ボブとアンとをして他者関係を結ばしめるというものではありえない。(神学としてはそう表現する場合があるかも知れない)。けれども もし結果としてでもそのように 見えたりし また表現したくなったりするとすれば それは こんどは すでにそこに成立した他者関係についての ボブならボブにとっての確信および幻想の結果である。確信x(掛ける)幻想の強さの結果であろう。――ただし 実体主義は 成り立ち得ないであろう。神とか信仰とかは そもそも超越性にかかわって 実体であるかどうかなど全く分からないゆえに 想定し説明表現に用いているのであるから いくら結果から始めて神学を形成するといっても 実体主義だとかあるいは 実体視は絶対に誤りだとかの説は いづれも決定され得ない。
(つづく→2008-04-09 - caguirofie080409)